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「ファイナンス理論で考える原発と正義の話(その1)」
さくら情報システム株式会社

2011年08月号
  • 「ファイナンス理論で考える原発と正義の話(その1)」
さくら情報システム株式会社   遠山 英輔

 先日、中学一年の息子と、「マイケル・サンデル 究極の選択」第1回放送、特別番組 『大震災・私たちはどう生きるのか』を見ていました。ご承知の方も多いと思いますが、ハーバード大学のサンデル教授は、政治哲学をJUSTICE(正義)というキーワードから多様に論じておられます。これを見た後での息子との問答の中で、ファイナンスの考え方で原発の話を整理してゆくと、まさしくこのJUSTICEに行き当たるのではないかなと思い至りました。因みに、この番組を見た息子の意見は、光栄なことに(?)ハーバードの学生たちに近く、『条件付原発容認』といったところでした。要約すれば『原発が絶対安全というのは有り得ないとみんな判っていたんじゃないの?でも、車や飛行機と一緒で使わざるを得ないよね。』といったところでした。本稿においては、これを起点に少し考察を試みたいと思います。

 まずこの原発問題を考える上では、全体としてリスクという考え方が見事に欠落している、ないしは関係者がそこから巧妙に眼をそらせて問題の本質をうやむやにしてきたという点が重要だと思われます。大前研一氏の指摘によれば、当局の論理は「事故を起こす確率は限りなくゼロに近いけれども、百歩譲って最悪の事態が起こって核暴走を始めたとしましょう、その時でも放射性物質は格納容器の中に収めてみせます」(文芸春秋社刊、日本復興計画 P.76より引用)ということになります。安全を担保する『格納容器神話』の論理を飛躍させたものであるとともに、リスクの存在そのものをあいまいにしてしまった論理とも言えるでしょう。これは一面では、政治的妥協の産物でもあり、社会的正義という観点からも様々な問題がありそうです。
 今回の事故は、この神話(妥協の論理)があっさり崩されたものであることはもちろん、こうした論理が使われるとリスクにかかる議論、ひいてはリスクマネジメントが正しく行われなくなるということを端的に示したのではないかと考えます。そして、ここがはっきりしなければ、そもそも、原発のリスクとリターン(この場合は原発を使うことの便益)のバランス、すなわちリスクファイナンスの考え方の基本でもあるリスクリターンの考え方を適用することが不可能になる、要するに「正しく考える」ことができなくなるということになります。

 リスクファイナンスの考え方では、リスクや損害のレベル分けとして、下記の3分類で考えることが一般的です。

(1) 平均的に見込まれるレベル、予め発生するものとしてコストとして処理する損害(Expected Loss<期待損失>に相当するレベル)
(2) 可能性は低いがストレステストなどを行ってインパクトの度合いを評価し自己資本や保険等で備えるイレギュラーな損害(Unexpected Loss<非期待損失>に相当するレベル、テール事象)
(3) 可能性はきわめて低いが起きてしまえばインパクトは甚大でコスト面から備えようもないレベルの損害(極値に相当するファットテール事象)
 今回の原発の事故はこれのどれにあたるか?という整理は、実は非常に重要な問題を含んでいるようにも思われます。
 このことは言葉を変えますと、起こってしまったリスク事象をどう考えるかということになり、いわゆるバックテストの視点にかかわってきます。このバックテストは、金融リスクを評価する数学モデルなどがうまく働いているかどうかを、あとから実際に起こった事象をあてはめて評価する方法です。例えば、1年に1回の頻度で損害が発生するとモデルが事前に予想していたときに、実際には3年に4回起こっていたとして、モデルが間違っていたかブレの範囲なのかを統計学的に検証するようなテストのことです。もちろん、原発の場合はこうした事象自体が多くないのでこの方法ではテストはできませんが、何らかのアセスメントは行うべきものだと思われます。
 この点、「起こってしまったことなのだから後から発生確率を論じるのはナンセンス」 といった議論も散見され、それは一面正しいと思います。しかし、この事故の持つ性質、上記の3分類のどこに属する話なのかは、実はいろいろな意味でJUSTICEの視点を左右する大問題と考えるべきでしょう。本当に想定外なのか、想定し備えておくべき人災なのか、想定内なら電力会社・想定外であれば国が負担すべきなのか、国で負担するにも限度があるのではないか、こうした社会的正義の問題に答えを出すための一つの根拠がここにありそうです。

 さて、原発にかかるリスクが実ははっきりしていないという問題は、リスク、コスト、リターンをめぐる分析の根底が揺らいでいるということになります。この問題がはっきりしてこないと、原発継続利用か廃止かの議論も全くナンセンスになることは言うまでもありません。
 例えば、自動車を利用すれば統計的にみて日本国内だけでも毎年数千人の人々が命を落とされその数倍の人々が怪我をするわけですが、我々はそれを認識した上で自動車を使うことを許容しています。つまり車のもたらすリターンはリスクないしコスト(人的損失を含む)を上回っているので使い続ける、しかもそのコストも国ではなく個人と保険会社が負担するという選択を、社会が暗黙裡に行っているわけですね。同じ議論を原発についてやるに際して、素朴な疑問としてここを問い直してみると色々な疑問が浮かびあがってきます。

  • そもそも、原発はどのくらいのリスクがあるのか?
  • 一方で社会が許容するリスクはどの程度か?(例えば、何年に一度の損害だったら「仕方ない」としてあきらめるか?)専門用語で言えば、国民が許容するリスクトレランスはどのレベルなのか?
  • その、リスクトレランスの範囲内に原発のリスクを収めるためには、どの程度のコストがかかるのか?
  • そのリスクとコストは誰が負担すべきなのか?
  • そのコストを織り込んだ上で、原発は(社会的に見て)代替エネルギーと比べても「安い」のか?

 原発と自動車を同じ土俵で論じるだけでも、こうしたことを詰めていかねばならないということになりますね。となると、どうやら冒頭の息子の意見と疑問に答えるのは、甚だ難しい話ということになりそうです。そして、リスクリターンの考え方がかくも素朴な疑問に直結し、高度に政治的な選択を考える際のツールにもなるものなのだということを、改めて思い知らされたように思います。

 さて、次回はこうした議論をふまえて原発のリスクリターンの話を、オプション理論とNIMBY(Not In My Back Yard : 裏庭に原発はお断り!)の観点で考えてみたいと思います。

*本Webマガジンの内容は執筆者個人の見解に基づいており、株式会社オージス総研およびさくら情報システム株式会社、株式会社宇部情報システムのいずれの見解を示すものでもありません。

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