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「ファイナンス理論で考える原発と正義の話(その3)」

2012.02.08 さくら情報システム株式会社  遠山 英輔

 前号では、原発をめぐる関係者のリスク、コスト、ベネフィット(便益)の負担と分配の図式(再掲図をご参照ください)が、ファイナンスの世界では広く使われているオプション取引の考え方で整理できることを論じました。そして、この考え方が、NHK教育テレビ「ハーバード白熱教室」でお馴染みのサンデル教授の「正義(Justice)」の話に直結するとお話しました。最終回の今回は、「政府と電力会社を監視して行く権利と義務」というフレーズ、そしてNIMBY(Not In My Backyard : 裏庭に原発はお断り!)の話をあわせて、論じてみたいと思います。

原発事故のモデル図
図 1 原発事故のモデル図(再掲)

 前号に詳しく説明しましたが、この図1はファイナンスでよく使われるオプション取引(コール・オプションの売りという言い方をします)、あるいは保険取引のペイオフを表しています。つまり、「誰かの危険を引き受ける(保険金支払義務を負う)かわりに、先に一定の報酬(保険料)を受け取る」ということです。原発に即して言えば、事故のリスクを取る代わりに、安い電力料金というベネフィット(便益)、すなわち保険料を社会全体として享受する、ということになります。
 原子力発電の全体像ということで考えれば、社会全体として備えるべきリスクの水準をはっきりさせ(「想定外」からの脱却)、それに備える平均的なコストは電力料金を通して一定部分を電力需要者が電力会社とともに負担し、最悪の場合においては電力会社のリスク資本でカバーできているかを検証してゆくのが基本となります。このリスクにかかるコスト、ないしは備えるべきリスク資本が電力会社と電力需要者でカバーしきれなければ、そこからは政府の役割ということになります。端的に言えば、国策として政府が全面的にリスクを背負い、何かあれば税金ですべてをまかなうという形、すなわち原子力発電事業の国有化が、この場合には基本的なあるべき姿になります。

 さて、オプション取引(保険取引)のペイオフは、社会全体はもちろんですが個々の関係者の利害においても、全く同様に考慮すべき話になります。図2の地元の方のペイオフを例にとって見てみましょう。

原発の地元のペイオフとリスクコミュニケーションの機能不全
図 2 原発の地元のペイオフとリスクコミュニケーションの機能不全

 地元の人達に対する直接・間接のベネフィット(補助金から原発関連の雇用まで)は、保険取引になぞらえて原発を引き受けるリスクの対価とするのが、一つの自然な考え方になろうと思われます。この考え方の場合、「リスクがあること」を双方が認識していてその対価を払うという形になっているわけですから、第一回でお話をした「格納容器神話」、すなわち「実質的にリスクはありません」という話をここに持ち込んできた途端に、話が大きくよじれることになります。地元の人たちからすれば、リスクは無い(のだろう、ということにして、はずだ…)けどという、言わば精神的な慰謝料のような認識かもしれません。一方で、実際にベネフィットを与える人(納税者と電力料金を支払う人)からすれば、「リスクはないのになんでベネフィットを与えるのか?」という反論が出てきてもおかしくはなさそうです。これは、格納容器神話の大きな罪であると同時に、リスクコミュニケーションの機能不全の一断面といえましょう。
 さらにベネフィットの公正な配分という、正義の問題、ないし厚生経済学の視点で見ると、この保険料という捉え方自体にも色々な問題もありそうです。例えば、ベネフィットを受けた人と実際にリスクや損害を引き受けた人が必ずしも一致しないというのはその一つです。「何の補助金ももらっていないのに風評被害でえらい損害を受けた」という、原発から離れた農家の方の叫びなどはこの典型といえるかもしれません。また、地元の人でも、原発関連のベネフィットを直接享受していた人と、単に近くに住んでいた人の間に補償の格差があるべきか?といった、答えるのが難しい問題もあろうと思います。

 NIMBY(Not In My Backyard)の話も、こうした認識に立脚して、リスクコミュニケーションの問題も含めて考えないと、「単なる厄介者の押し付け合い」という次元の話に陥って、行き詰まりを見せてしまうものではないかと思われます。「原発賛成、でもウチの隣はだめ」という素朴な話は、リスクの観点でブレークダウンしてみると、意外な側面をたくさん持っているかもしれません。
 自分の家の隣がダメということ一つとっても様々な理由が考えられます。例えば、リスクはとにかくイヤという人もいれば、ベネフィットがはっきりすれば容認する可能性のある人もいるかもしれません。後者の考え方をする人が、NIMBYの主張をしているとすれば、それはベネフィットを認識していない、あるいはそのベネフィットでは安すぎるということもあるかもしれません。(保険会社が事故違反歴のある人の保険料率を上げるのと同じ論理ですね)この場合は、リスクコミュニケーションの不足による契約不成立(ミスプライシング)の可能性もあります。「納得できる安全対策をしてくれれば、公益の立場から隣に建ててもよい」という人もいるかもしれません。

 このように考えてゆくと、想定外を排除する考え方を徹底すると同時に、それを客観的に「見える化」するためにシミュレーション(いわゆるストレステストもこの一つです)をうまく使い、リスク、コスト、ベネフィット(便益)をきちんと考えること、つまるところ質の高いリスクコミュニケーションが何より肝要になろうというのが今回の福島問題の第一の教訓になろうと思います。
 そして、昨今の電力料金の引き上げ問題、東電の増資問題を考えるにあたっても、こうした手法を社会全体に拡大して適用してゆくことが必要だろうというのが第二のポイントのように思われます。この点、納税者と電力の需要者も、選択肢を明らかにしてその中から道を選んでゆくということが必要になろうと思います。これが、「政府と電力会社を監視して行く権利と義務」の具体的な一つの形だと筆者は考えています。
 また、電力料金設定の問題について言えば、今回の事故で明らかになりつつある原発のリスクコストを考えれば、安い電気は「無い物ねだり」なのではないかという仮説が成り立ちえますから、検証してゆく必要があると思われます。また、そのリスクコストを正しく評価する上では、原発の地元の人々が負っているものを正確に理解する、言わば被災地への(理解を伴った)共感も、大きなポイントになろうかと思います。裏を返せば、これはNIMBYの主張の強力な根拠となるかもしれませんし、それを覆すこともありえるかもしれません。今はNoだけど、社会的なフレームワークや技術の進歩でYesに変わるということもあるかもしれませんし、そのためには「高いコストでも原発の火は絶やさない」というのも選択肢だと思われます。

 さて、3回にわたって原発問題を論じてきましたが、ファイナンスの理論が、こうしたことを考える上で「オッカムの剃刀」(思考節約の原理:複雑な事象の枝葉を切り落とす)の役割を果たし、中でもリスクコミュニケーションという概念が、正しく考える上での、つまるところは「正義」の強力な武器になるのではないか、ということが見えてきました。被災地の皆様に思いをはせつつ、この点を本稿の結論にさせていただければと思います。

*本Webマガジンの内容は執筆者個人の見解に基づいており、株式会社オージス総研およびさくら情報システム株式会社、株式会社宇部情報システムのいずれの見解を示すものでもありません。

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