第17回 何気ない行動から人間の社会性と心理を解明する取り組み(5)-コミュニケーション行動研究の知見から③-

2011.07.08 山口 裕幸 先生

 前回は、「所変われば、行動やしぐさの意味も変わる」という視点から対人的コミュニケーションの面白さと難しさについて紹介した。今回は、世界中どこに行っても何となく通じてしまう非言語コミュニケーションのツールである表情について考えてみたい。

 言葉の通じない国に出かけるときは、何となく不安なものである。しかし、不思議なもので、臆せず話してみると、お互いの考えていることはなんとか通じてしまうことが多いから面白い。タイのバンコクで入った屋台で、どんなメニューがあるのか知りたくて、屋台の主とかわしたコミュニケーションや、スペインのバレンシアの街角で迷子になって、学会会場までどの道順で行けばいいのか教えてもらおうと、通りすがりの若者とかわしたコミュニケーションなど、筆者自身も、後になって思い返してみると、なぜ無事にパッタイ(タイ式きしめん)を食べ、学会会場にたどり着いたのか、よくわからないくらいである。どうして言葉は通じないのに、身振りや手振りを駆使したコミュニケーションは、意外と通じてしまうものだ。お腹をおさえてしかめ面をすれば、お腹が痛いことを伝えることができる。誰かを大声で呼びながら涙を流している子供をみれば迷子になったのかな、と心配になる。たいていのことは身振り手振りで伝わるものである。ただ、このとき、とても大切な働きをしているのが、我々の表情であることを忘れてはならない。

 というのも、前yamaguchi17.jpgのサムネール画像回みたように、身振りや手振りだけでは、文化や地域によって異なる意味を持つことも多い。それに比べて、表情については、世界中の人々が互いに理解し合える「世界共通記号」ともいえるほどだからである。世界中どこに行っても、笑顔は親愛の感情を示し、泣き顔は悲しさを表す印である。当たり前じゃないかと言う人がいるかもしれないが、このことは、改めて考えてみると不思議なことである。なぜ、全く異なる環境のもとで育ち、生活してきた者どうしなのに、他者の表情を見て、そこから他者の心の状態を推察する結果は同じものになるのだろうか。前回紹介したように、親指と人差し指で作るOKマークは、地域が異なると、意味も大きく異なって理解されてしまう。表情にはそんな食い違いが起こりにくい。笑顔の人を見て、怒っていると推察する人々が、この世にどれくらいいるだろうか。yamaguchi17-2.jpgのサムネール画像

 進化論で有名なチャールズ・ダーウィンは、非言語コミュニケーション研究の開拓者としても高く評価されている。世界中を旅してまわったダーウィンは、未開の土地で独自の文明を守りながら存続してきた民族の集落を訪れたとき、どうやってコミュニケーションをとればいいのか、はたと困ってしまったという。しかし、彼が笑顔で挨拶をしたところ、幸いにも相手も笑顔で答えてくれ、その集落での研究(行動観察)は無事行うことができたという。未開の土地の人々は、それまで集落の外の人たちとの交流はほとんどないままに生活を送ってきたはずである。なぜ笑顔で挨拶することが、敵意はなく親愛の気持ちを持っている印だと理解できたのであろうか。言葉やしぐさではこうはいかない。それはどんな意味なのだといぶかしがられるだけに終わるかもしれない。

 ある感情が特定の表情につながることを暗黙のうちに我々は知っている。表情の形成は脳の働きであって、人類全部が共通に持っている体の反応なのであろう。ただ、その体に表れる心の状態が、喜びや悲しみなどの表れであることを知るのは、他者との交流があるからだ。他者との交流の中で、表情の持つ意味を確認し、自分自身の感情と表情との関係についても把握するのである。表情の理解だけでなく、他者の気持ちを思いやる共感性や、お世話になるとお返しをしたくなる返報性(互恵性)など、人間が暗黙のうちに身につけている情動は、人間が進化の過程で、社会的な生活を送ることを選択したことによって、身についてきたものである。表情が意味する心の状態を互いに読み取ることができるのも、先祖たちの経験が暗黙知となって現在の我々に受け継がれてきたものと考えることができる。

 表情に注目することで、直接には見えない、その人の心の状態を推察することも可能になる。行動観察の成否の鍵を握る要素のひとつであるといえるだろう。

※先生のご所属は執筆当時のものです。

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