第39回 「なんとなく」な意思決定の背後にある心理(2)-行動経済学と社会心理学③-

2013.10.08 山口 裕幸 先生

 前回に引き続き、人間の不合理な行動の背後で働いている心理プロセスについて考えていこう。前回紹介したモンティ・ホール問題のように、誰もがうっかり行っている不合理な意思決定は、なぜそうなるのかさえ理解するのが難しいほど、無自覚のうちに直観的に行っているものである。確率論的には不合理でも、人間にとっては当たり前すぎるほど合理的なものであるところに特徴があった。それに対して、それは不合理だと自分でもわかっているのに、ついつい陥ってしまう意思決定の落とし穴とで呼べるものが、サンクコスト(sunk cost)の呪縛と呼ばれるものである。

 具体例を挙げてみよう。あなたが持っていた土地を利用して地元名産のイチゴを栽培して出荷してはどうかと考えた。イチゴを栽培するには、苗の仕入れやビニールハウスの購入等、総額500万円の資金が必要になる。他方、出荷すれば600万円の利益が見込まれる。色々と検討した結果、あなたはイチゴ栽培に乗り出すことを決断した。順調に栽培は進んでいたが、季節外れの大雨と強風で、栽培施設に被害が出てしまった。その段階まで400万円の資金をつぎ込んでいたが、このままイチゴ栽培を継続して出荷にこぎ着けるには、追加で300万円の資金をつぎ込む必要がある。さらに、かなりのイチゴの苗が被害を受けてしまったため、見込まれる利益は200万円に減少することもわかった。さて、あなたは、これまでつぎ込んだ400万円はあきらめてイチゴ栽培を断念するのか。それとも?......。

 合理的に判断しようとするならば、ここで注目すべきは、追加の出費と見込まれる利益との対比である。あと300万円をつぎ込めばイチゴ栽培を継続し、出荷にこぎ着けることはできる。しかし、そこで得られる利益は200万円である。すなわち100万円の赤字になると見込まれるわけである。大雨・強風被害の直後は400万円のマイナスであるのに加えて、イチゴ栽培を継続すると、さらに赤字が100万円増えることになってしまう。したがって、さらに赤字が増えるようなことはやめて、400万円はイチゴ栽培失敗に"沈んでしまったコスト(sunk cost)"としてあきらめることの方が財務的には合理的である。

 しかし、多くの場合、このサンクコストをあきらめることはなかなかできない。「せっかくがんばってきたのだから」と、それまで様々に苦労し犠牲にしてきたことがらが思い浮かばれ、「ここまでの出費や苦労が無駄になるのはもったいない」という感情が先立ってしまうのが人間の心理なのである。その結果、更なる努力と苦労と犠牲を重ねて、更なる窮地に陥ってしまうことが、往々にしてあるのが実情である。

 パチンコや競馬のようなギャンブルを行う場面では、すでに失った出費をなんとか取り返そうとして深みにはまることが多いと言われる。とはいえ、ハズレ続けていれば、当人も「今日はツイテいないな。やめでしまった方が無難かな」というくらいの考えは持つはずである。しかし、潜在的にギャンブルを続けたいという欲求は心の中に渦巻いている。そんなとき、サンクコストの心理がギャンブルを続ける言い訳を与えてしまうと言えるだろう。第三者から見れば、何とも不合理で不可解な行動であっても、当人にとっては、「だって、それまでの投資がもったいないじゃないか」と、自分なりにちゃんとした説明のつく行動なのである。

 同様の心理メカニズムが基底に働いている行動として、一度嘘をつくと、次からはさらに大きな嘘をつかなければならなくなる現象をあげることもできそうだ。自分でも深みにはまっていく原因がわかっているのに、そこからなかなか抜け出せないことから"Knee-in-the-big-muddy(膝まで深い泥沼にはまってしまった)"現象と呼ぶ研究者もいる。

 個人だけでなく、集団レベルでも、サンクコストの心理が引き起こしていると考えられる不可解な現象は多い。例えば、公共事業の中には、開始決定から長期間が経過して、社会的にもう必要ないとか、意味がないという意見が圧倒的多数になっていても、「走り出したら止まらない」と揶揄されながら、延々と事業が継続されるものも多い。太平洋戦争における日本政府やベトナム戦争におけるアメリカ政府のように、それまでの犠牲の大きさを重視するあまり、さらに多くの若者を死地に赴かせてしまった政策決定の背後にも、集合的なサンクコストの心理が働いていたと考えられる。

 サンクコストの呪縛は、「わかっているのに止められない」ところに特徴がある。そんな「わかっているのに」陥ってしまう不合理で不可解な人間行動は他にもいくつかある。次回は交渉場面に焦点を当てて、人間の不合理行動について論じていくことにしたい。

※先生のご所属は執筆当時のものです。

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