第68回 UXを考える(4)

2016.03.24 山岡 俊樹 先生

 3月になると卒業式や謝恩会があり、主催者、関係者の挨拶を聞き、いろいろ考えることがある。また、同月某デザインコンペの表彰式があり、京都女子大学の学生が優秀賞を受賞したので参加し、関係者の挨拶を聞くと、共感し新たに頷くこともあった。

 しかし、欧米で開催された国際会議の懇親会にでると、主催者の挨拶が無く、参加者同士で話をして、飲食する場合が多い。一方、アジアの国々では、このような場合、主催者による挨拶があるのが普通である。昔、日本のある学会の全国大会の懇親会に出かけたが、地方ということもあり関係者の通り一遍の挨拶だけで40分もかかった。その間、立ち続けで、ほとんどの参加者は何も聞いていないようであった。

 若い時、合理的に考えると形式に従う挨拶などは不要であると考えていた。しかし、年を取り、形式の持つ美しさに気が付くようになった。『日経おとなのOFF、4月号(2016年)』に、「葬式やお墓は形。その形は『悲しみ』を表す形にもある」(p88)というタイトルで、評論家の川本三郎さんの考えが紹介されていた。合理的に考えれば、葬式や墓は不要かも知れないが、葬式などの形式により、精神的な区切りがついたり、心が慰められることがあるという。

 確かに、芸術の世界でも、最初は形式から入り、最後は自分の世界を構築している。クラシック音楽では、バッハは形式の中に美しい音楽を残した。身体表現のバレエでも基本の形を組み合わせて、芸術表現をしている。茶道も同様の世界である。

 さて、UXの世界ではどうだろうか?操作する時には、形がある。ある操作が時間軸上で洗練され、無駄のない型になると、茶道のように人々はそこに美を見つけるであろう。例えば、台湾で茶器セットを購入したが、お茶を注いで飲み、残りを捨てる手順が決まっており、従来にないUXを感じた(図1)。このベクトルがUXの今後発展してゆく鍵となるかもしれない。

※先生のご所属は執筆当時のものです。

関連記事一覧