第72回 ひとりの行動が社会変動に結びつくとき(1)-投票行動に注目して-

2016.07.19 山口 裕幸 先生

 6月23日に行われたEU(ヨーロッパ連合)からの離脱か残留かをめぐるイギリスの国民投票の結果に驚いた人も多かっただろう。2年半前の2013年1月にキャメロン首相が国民投票の実施を宣言して以来、離脱か残留かの二者択一の状況で、双方の支持意見が拮抗し、激しい論戦が繰り広げられていた。最後までどちらに投票しようか迷った有権者も多かったようである。迷いに迷った結果、離脱に投票したが、それは間違いだったと後悔している人が少なからずいることを報道するメディアもあった。

 判断に迷うことは誰もが経験することだ。むしろ自分なりに確固たる意見を持っているといえることの方が少ないかもしれない。ただ、選挙の時には、誰に、あるいはどの党に投票しようかと迷っている人たちの投票行動が、結局のところ、結果を大きく左右することがあるので、事は重大だ。確固たる態度、意見を持っている人たちはいわゆる固定票であり、どんな状況でも安定した票数として予測可能である。この安定固定票にどれだけ積み上げができるかが選挙の行方を左右する。したがって、態度が定まっていない人たちが、誰に、どの党に投票するのか、あるいは投票を棄権してしまうのかが、選挙の結果に大きく影響することになる。

きちんと自分の態度が定まっている有権者の投票よりも、自分の投票をどうするかが明確に決められない迷える有権者の投票が、重要な選挙の結果を左右するのは皮肉なことだが、イギリスの国民投票の場合、国内だけでなく国際的にも、そして将来にわたっても影響の大きな決定だっただけに"皮肉だ"のひと言で済ますわけにもいくまい。このことは我が国でも同様だ。

 そもそも、投票する意志を持ちながら、具体的な投票対象の決定に迷っている人ほど、周囲の人々の影響を受けやすい。自分だけではなかなか決めきれないから、どうしても周囲の人々の行動や態度を観察して参考にしがちなのである。そして、自分の周囲の多数意見に追従したり、多数派に同調したりして、投票行動をとってしまう。こうした心理や行動が起こりがちなことは、本コラムの第1回~3回に紹介した通りである。

 自分の投票と一致する選挙結果が出て社会的に受け入れられてしまえば、自分の投票に責任を覚えることはない。むしろ自分の投票が価値を持ったと感じるだろう。また、自分の投票とは反対の結果が出た場合には、自分の投票の意味がなかったと思う反面、結果に責任は感じにくい。ところが、今回のイギリス国民投票の場合、自分の見解は確固たるものとはいえないまま、周囲の動向を踏まえて、離脱に賛成票を投じた人の心中はどのようなものだっただろうか。

 世界的には離脱の決定を愚かで思慮を欠くものという意見が大勢を占めていることを知らしめるメディアの情報が相次いだ。また、EU離脱を主導してきたイギリス独立党のN.ファラージ党首が、それまで頻繁に主張してきた「毎週、3.5億ポンドがEUに支払われている。EUを離脱してこのお金を医療サービスに充てよう」というキャッチフレーズについて「3.5億ポンドの数字は正しくなかった」ことを選挙後になって認めた。同党首は、他にも「イスラム教徒でいっぱいのトルコがEUに加盟する」と主張していたが、それは不確実な情報でしかないこともわかった。

 将来のことと思っていたものが、現在の事実になったとき、それまではさほど現実感のなかったEUを離脱することに伴う損失の大きさや様々な困難の存在の認識が、リアルな現実として心に押し寄せてきた人の中には、「後悔している。できれば投票をやり直してもらえないか」といった言動をとる人もいた。喜びでも苦しみでも、遠い先のことは過小評価し、直面する事態では過大評価してしまう双曲割引の認知バイアスが働くことは、本コラム第50回でも紹介したとおりである。

 直近の移民問題、失業者問題は過剰に重大に捉えられがちで、離脱したことに伴う将来の損失や苦難については過小評価しがちになる認知バイアスは、個人の心理の中では少なからず影響をもたらしていただろう。しかも、直近の問題は不満や怒りの感情を伴い、強い感情は瞬発的な威力に富み、理性的な判断よりも優勢に立ってしまうことが多い。感情の瞬発力は強く、刺激を受けるとほぼ反射的に自動的に発動する。感情のコントロールは人間が最も苦手とするものである。

 今回のイギリス国民投票では、投票の意志を持ちつつ、どちらに投票するか「迷っていた」人々は、論戦が加熱するほどに、自分の周囲の多数意見に影響を受けつつ、理性的な判断よりも、双曲割引の認知バイアスのかかった感情的判断に流れていったことが推察される。僅差とはいえ、選挙の結果は厳然たる事実である。そしてその決定は、一人ひとりの投票行動が生み出したものである。

 経済活動を中心にグローバル化している国際社会で、イギリス国民投票の意外な結果は、変化を導く契機として十分なインパクトを持っている。果たしてどんな社会変動につながるのだろうか。そして、次の選挙における投票行動にどのように影響するのだろうか。個人の行動が社会全体の変化といかに結びつくのかを理解するために、投票行動は興味深い行動観察の対象といえるだろう。

※先生のご所属は執筆当時のものです。

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