第2回 流行や普及の社会現象の発生メカニズムと行動観察-T.C. Schellingの「限界質量」の理論を題材にして-

2009.08.18 山口 裕幸 先生

 今回は、行動観察は、ある現象やルールが社会に流行・普及するかどうかを予測するときにも頼りになることについて論じてみたい。前回紹介したように、我々人間は、周囲の他者の言動に敏感であり、知らず知らずのうちにその影響を受けてしまう存在である。ただ、人間は何も考えないままに影響を受けるのみの存在ではない。他者の言動を観察しながら、その言動の背後にある意図や理由について推測することも行うのが人間である。ラーメン屋の前に行列ができていれば、「たくさんの人が美味しいお店だと評価しているんだな」と推察するのである。このとき、その推測は、自分の経験や知識に基づいて"勝手に"行うことがほとんどである。直面する状況の意味を瞬時に推測してしまう"ヒューリスティックス"と呼ばれる自動的な情報処理メカニズムさえ、人間は身につけている。こうした自動的な推測は、思い込みと紙一重の違いしかないといえるだろう。

 周囲の他者の言動に反応する敏感さは"社会的感受性"と呼ばれる。社会的感受性は、他者の行動を見聞して、その原因を推測し、自分なりの反応をとる一連の情報処理のスピードの素早さを意味している。個人によって社会的感受性の鋭さは異なるし、反応の対象となることがらの性質によっても異なってくる。たとえば、「脳死は人の死として認めていいか」という問題提起がなされたとき、賛成であれ反対であれ、それに敏感に反応して自分の態度を示す人たちが、社会の中には一定程度存在する。そして、「私はよくわからない」という人たちもいるし、「そんなこと関心がないし、考えたこともない」という人たちもいる。この段階で各人が自分の態度を固定させてしまうのであれば、世の中に流行や普及の現象は発生しないまま事態は収束していくことになる。

yama2-1.JPG しかし、繰り返し述べてきたように、我々は他者の言動に敏感に影響を受ける。上記の例を踏まえて説明しよう。最初の段階では、即座に賛成と答えた人の割合は少なくても、その少数の賛成者を見て、それに刺激されて「よくわからない」から「賛成」へと態度を変える人たちが一定程度出てくる。この変動が、人間社会の面白いところだ。そして、賛成者が増えてきたようすを見て、それに影響を受けて「自分も賛成しよう」と態度を変える人がさらに増えてくる。すなわち、雪だるま式に賛成者が社会に増えていくのである。こうした社会的普及のメカニズムを指摘したのはノーベル経済学者のシェリング(T. C. Schelling:写真)である。

 彼は、ある現象が社会に流行・普及するか否かを説明する「限界質量モデル」を提唱した。それは、ある現象に関して、周囲の何割の人が反応すれば自分も反応するか(=社会的感受性)を人々に尋ねて、その分布を把握することから始められる。この分布は、問題となっている現象によって異なる。単純に考えれば、反応する人々の割合は、0%から100%まで少しずつ直線的に増えていくと想定される(理論値)。しかし、実際には、先ほど述べたように、雪だるま式の反応の連鎖が起こってくる。彼は、この連鎖による反応者の割合が、理論値を超える(グラフ上の直線を曲線が上回る)ポイントが、左側にあるほど、流行は発生しやすいし、右側にあるほど、流行は発生しにくいことを指摘した。この分岐点は臨界値と呼ばれる。

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 あることがらに関する人々の社会的感受性の分布を把握しようとするとき、行動観察は効果的な方法になる。もちろん、率直に質問して答えてもらうことも可能かもしれない。しかし、人間の多くは、自分自身、その場に直面してみなければ、自分がどう判断し行動するのか、よくわからないことも多い。したがって、流行するかどうかを知りたいことがらについて、人々がどのくらい他者の動向に応じて反応を起こすのかを観察する方が、流行・普及するか否かをより的確に予測することを可能にする。

 最近、新作映画が封切られる直前になると、出演する役者たちがこぞって次から次にテレビの情報番組に出て宣伝をしているのをよく見かける。これらの宣伝の狙いは、限界質量の臨界値をより低いものにする(グラフでいえば左側に寄せる)ことにある。より多くの刺激(=宣伝)によって、少しでも多くの反応者(=その映画を見に行こうとする人々)を増やすことで、その次なる連鎖的反応者を拡大しようという戦略である。何気ない他者の言動にさえ影響を受けやすい我々人間は、その戦略に乗ってしまうことが多いのである。

※先生のご所属は執筆当時のものです。

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