本記事では、2018年度に情報サービス産業協会(JISA)と共同で開発し、2018年12月提供を開始したアジャイル開発活用の推進役向けの「アジャイル開発の基本」講座の概要と、実施結果を紹介する。この講座の特徴の1つは、オンライン講義とオフラインの集合研修を組み合わせたハイブリッド構成となっている点である。
「アジャイル開発の基本」講座とは
講座のゴール
アジャイル開発を今後活用(実践)したいと考えている方々(特にアジャイル開発活用の推進役)の育成を支援するための講座であり、2018年度に情報サービス産業協会(JISA)と共同で開発した講座である。
本講座で主な受講者として想定しているアジャイル開発活用の推進役についてのより詳しい説明については、文献 [1] を参照してほしい。文献 [1] には、アジャイル開発活用の推進役が有すべきコンピテンシー、専門的なスキルや知識として以下のものが示されている。
- アジャイル開発の知識とスキル
- 説明能力
- 障害の克服能力
- 活用戦略の構想支援
- 教育能力
「アジャイル開発の基本」講座のゴールは、これらのコンピテンシー、専門的なスキルや知識の基本的な部分の習得に貢献することである。
講座の構成
本講座は、以下の3つの部分で構成されている。
- オンラインの講義
- ミニレポート
- 集合研修
A)は、Udemyというオンラインの教育プラットホームを通じて無償で提供されている [2] 、 [3] 。B)、C)は、A)と組み合わせる形でJISAから有償のトレーニングとして提供されている。講座をこのA)、 B)、 C) の3つの部分で構成した理由については、著者の考えるアジャイル開発のトレーニングのあるべき姿とともに本記事の後の部分で説明する。
A)は、以下の5つのモジュールで構成されており、アジャイル開発に対する基本的な知識と考え方の解説を提供している。
- Module 1: 「アジャイル開発超入門」
- アジャイル開発の狙いと日本や欧米での普及状況、アジャイル開発の特徴を説明している。
- Module 2: 「スクラム入門(その1)」
- スクラムの構成要素と基本概念、プロダクトバックログとスプリント計画を説明している。
- Module 3: 「スクラム入門(その2)」
- スプリント計画策定後のイベント、成果物とスクラムマスターの役割や育成を説明し、スクラムの事例を紹介している。
- Module 4: 「アジャイル要求」
- ビジョンを実現したり、仮説を検証するために用いるユーザーストーリーという要求の表現形式を説明し、さらにユーザーストーリーをより系統的に識別する方法としてユーザーストリーマッピングを説明している。
- Module 5: 「アジャイル開発の活用を進めるためには」
- アジャイル開発を導入する際のアンチパターン、アジャイル開発活用の推進役、アジャイル開発活用の推進役の支援のためにエンタープライズアジャイル勉強会が提供しているものを説明している。
B)のミニレポートは、Module毎にその内容に関する課題を設定し、それを短いレポートに記述し、提出して頂いている。C)の集合研修は、グループワークを通じてModule 2-5のいくつかの要素を実体験するために実施している。
先の節で説明したアジャイル開発活用の推進役のコンピテンシー、専門的なスキルや知識とA)-C)との関係は以下のようになる。
アジャイル開発活用の推進役のコンピテンシー、専門的なスキルや知識 | 対応する「アジャイル開発の基本講座」の構成要素 |
---|---|
アジャイル開発の知識とスキル | A)のmodule 1-4, B), C) |
説明能力 | B) |
障害の克服能力 | A)のmodule 5, B), C) |
活用戦略の構想支援 | A)のmodule 4 |
教育能力 | A)とC) |
講座において、「活用戦略の構想支援」については戦略的なレベルではなく、ソフトウェア要求のレベルでの内容に留まっており、また「教育能力」を育む内容は直接的には提供していない(間接的には、本講座自身が教育を進めるための参考になるのではないかと期待している)。
講座の実施実績
「アジャイル開発の基本」は、2018年12月から提供を開始し、本記事の執筆時点(2020年4月)までに以下の地域の方々を対象に3回実施している。
- 東京と仙台
- 東京
- 岡山と仙台
これらで、開催場所が2個所記されているものについては、2個所の会場をZoomでつないで集合研修を実施した。
また、Udemyに掲載している「アジャイル開発の基本」のオンライン講義も2018年12月から提供を開始し、2020年5月に小改訂したが、本記事の執筆時点(2020年5月21日)までの累積受講登録者数は1,417名に達している。
アジャイル開発の教育のあり方
「アジャイル開発の基本」講座を作るきっかけとなったのは、2018年3月に元上司の宗平さんから頂いた「アジャイル開発のオンライン講座を作りませんか」というメールだった。トレーニングといえば、私はそれまでリアルのトレーニングしか経験がなかったので、少しためらう気持ちもあったが、以下2つの可能性に魅力を感じてチャレンジすることにした。
- 受講者がスケジュールと場所の制約をあまり感じず、低コストで受講できる
- アジャイル開発を組織内で展開する際に、繰り返し発生するトレーニングのニーズにタイムリーに応えることができる
ただ、これまでアジャイル開発の手法を中心としたトレーニングを実施したり、自ら認定スクラムマスタートレーニングを受講した経験では、アジャイル開発を学ぶ際に重要なのは以下の2点だと著者は感じている。
- スクラムのイベント、成果物、役割のような知識
- 自己組織化、検査と適応などの概念の理解と体験
これらの後者をどのように実現するかという点が本講座を考える際に課題であった。その解決策が、講義ビデオと集合研修の組み合わせだった。つまり、前者については講義ビデオで実現し、後者については集合研修で実現することにした。
さらに、講座の全体の構成には、欧米でスクラムマスター育成トレーニングなどで参考にされている「Training From the Back of the Room (TBR)」 [4]の考え方を少し取り入れようと試みた。TBR は、人間の脳の学習過程に基づき、以下のような 4C でトレーニングを構成することを推奨している。
- つながり (Connections):トレーニングのトピックスと、受講者の既存の知識をつなぎ、受講者と他の受講者をつなぐ。
- 概念 (Concepts):見たり、聞いたり、行ったり、試行錯誤を行ったりする過程で、あなたの脳で新たな概念と既存の知識と新たに学ぶことの間の橋渡しができる。
- 具体的なプラクティス (Concrete Practice):新たに学んだことを実際に使い、使えるようになる。さらに、学んだことを他者に教えることで学んだことをさらに理解する。
- 結論 (Conclusions):学んだことを振り返り、評価したり、具体的にどのように使えるかなどについて考える。
「アジャイル開発の基本」では、集合研修を講座の最終日の1日間に集中したので、本来の4Cの流れとは異なり、講義とミニレポートで「概念」と「つながり」、「結論」を先に実施し、最後の集合研修で「具体的なプラクティス」を実施する形になっている。
講座の実施結果
JISAのご厚意で、岡山と仙台で実施した第3回目の講座実施後に実施したアンケートの集計結果の一部を紹介するとともに、講師を務めて得た感想を以下に記す。
受講者ID | 満足度 | 本講座を通じて得られた新たな気付き | ミニレポートの提出状況 | 講義動画やミニレポートに対するご意見・ご要望 |
---|---|---|---|---|
A | ◎ | 失敗してもいいという考え方 | △ | |
B | 〇 | アジャイル開発における時間枠の大切さ | 〇 | |
C | 〇 | 限られた時間内で工数を見積もる難しさ | ◎ | WFを知っている前提なので開発経験が少ない人には難しそう |
D | △ | アジャイル開発の難しさ | × | |
E | 〇 | 現状にでも取り入れる事のできる手法や考え方は随所にあると感じた。 | 〇 | |
F | 〇 | アジャイル開発を学ぶことで、現在行っている開発技法のメリット、デメリットに気付けた。 | 〇 | |
G | ◎ | 漠然とアジャイル開発の実施はお客様の理解がえられずむずかしいと考えていましたが、実際になにが障害なのか、お客様にとってのメリットは何なのかなど、いろいろな気づきがあり、イメージできるようになりました。 | ◎ | 前述しましたが、講義動画の視聴だけでなく、ミニレポートを提出することで、動画で説明いただいた内容を自分のなかで再整理する時間を持つことができ、理解が深まりました。 |
H | 〇 | × | ||
I | ◎ | アジャイル開発の考え方や手法への社内取込みに対する方向性 | ◎ | 動画を何時でも見直せる環境を維持してほしい |
J | 〇 | ◎ |
満足度:◎(非常に満足)、〇(満足)、△(普通)、×(不満)
ミニレポートの提出状況:◎(すべて提出)、〇(半分以上提出)、△(半分未満提出)、×(まったく提出していない)
第3回目の講座の全受講者数は20名であり、残念ながらアンケートの回答者数はその半数に留まる。アンケートの回答者における講座全体の評価は、非常に満足が3名、満足が6名、普通が1名だった。また、講座を通じて気づいた点においても比較的肯定的なコメントが得られた。
また、講師がミニレポート等から受講者のコンピテンシー、専門的なスキルや知識において成長が感じられた点や成長したかどうかよく分からなかった点は、以下の表のとおりである。
アジャイル開発活用の推進役のコンピテンシー、専門的なスキルや知識 | 成長が感じられた点あるいは成長したかどうかよく分からなかった点 |
---|---|
アジャイル開発の知識とスキル |
|
説明能力 |
|
障害の克服能力 |
|
活用戦略の構想支援 |
|
教育能力 |
|
これらの結果から、本講座はアジャイル開発活用の推進役のコンピテンシー、専門的なスキルや知識の中で、「アジャイル開発の知識とスキル」、「説明能力」、「障害の克服能力」の育成に貢献できたのではないかと考えている。
考察
本講座は、オンラインの講義とオフラインの集合研修を軸に構成されており、前述したTBRの4Cの考え方を取り入れるためにオンライン講義にミニレポートを組み合わせる形にした。この講座の構成には、以下のような長所と短所が考えられる。
- 長所:
- オンラインでの講義の提供により、受講者が自分のペースで自分の通常の生活圏で講義を理解することができる
- ミニレポートにより、4Cの概念 (Concepts)と結論 (Conclusions)により、講義の内容の理解を促進している
- 集合研修により、4Cのつながり (Connections)と具体的なプラクティス (Concrete Practice)により、アジャイル開発の実践の雰囲気を体感することができる
- 短所:
- ミニレポートを書く負荷が少し高い
- ミニレポートと集合研修で、4Cの概念 (Concepts)と結論 (Conclusions)、つながり (Connections)と具体的なプラクティス (Concrete Practice)が分断されている
これらの長所と短所に対する考察は、以下のとおりである。
講師としては、提出されたミニレポートの内容から講義の内容の理解が促進されていることがうかがえるので、ミニレポートを書くことの長所は短所を上回っているのではないかと考えている。
「ミニレポートと集合研修で、4Cが分断されている」という短所については、これが「オンラインの講義により受講者がマイペースで自分の通常の生活圏で学ぶ」という長所である程度補われているのではないかと考えている。そのように考えた根拠は、先の節で紹介した受講者の満足度が比較的高いということに基づいている。今後、可能であれば「ミニレポートと集合研修で、4Cが分断されていない」状況でトレーニングを実施し、実施結果を比較したいと考えている。
今後の課題
本講座のオンラインの講義とオフラインの集合研修、ミニレポートという構成と比較するために、今後機会があればオフラインの講義と集合研修と、ミニレポートをグループ討論に置き換えたものを実施したいと考えている。
また、本講座がその主たる対象者であるアジャイル開発活用の推進役の育成や、アジャイル開発活用の推進においてどの程度有効であるかをさらに確認していきたいと考えている。
参考文献
[1] 藤井拓, 中原慶, 組織的なアジャイル開発活用の施策とその推進役の育成─コニカミノルタの施策に基づいて考える─, デジタルプラクティス, Vol.11, No.2, https://www.ipsj.or.jp/dp/contents/publication/42/S1102-S05.html
[2] Udemyの「アジャイル開発の基本(前編)」, https://www.udemy.com/course/jisaag-kpjleufc/
[3] Udemyの「アジャイル開発の基本(後編)」, https://www.udemy.com/course/jisaag-zpxfxnvz/
[4] Sharon L. Bowman, Training from the Back of the Room! : 65 ways to step aside and let them learn, Pfeiffer, 2008