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ビットコイン論文からさぐる ブロックチェーンのヒント

第9回 インセンティブ 後編:サトシの経済学
オージス総研
樋口 匡俊
2019年10月29日

今回は、前半でビットコインの価値に関するサトシの考え方について、ハイエクの「貨幣の脱国営化論」との違いを明らかにしながら見ていきます。また、後半では、ビットコインの価値に基づくインセンティブがどのような特徴をもつのか、具体的な事例をもとに説明します。

ビットコインに価値は無い?

ビットコイン論文の公表から数日後、レイ・ディリンジャー (Ray Dillinger) という人物が、ビットコインの PoW には内在的価値 (intrinsic value) が無い指摘しました

円やドルなど不換通貨 (fiat currency, 法定通貨) も、ただの紙という点では価値はありません。しかしディリンジャーによると、不換通貨は納税に使えることで人工的な需要が作られるのだそうです ※1。一方でビットコインは、納税に使えるわけでもなく、供給は増えていくのに需要はまったくなく、インフレになると言うのです。

散々な言われようですが、サトシはビットコインの価値をどのように考えていたのでしょうか。本記事前半は、1974年のノーベル経済学賞受賞者、ハイエク (F. A. Hayek) の「貨幣の脱国営化論 (Denationalisation of Money)」と比較しながら、サトシの考え方を紹介していきます。

ハイエク「貨幣の脱国営化論」

ハイエクの「貨幣の脱国営化論」は、ノーベル賞受賞から間もない1976年に第一版が公表されました。今回参照したのは、1978年の第二版に新たな序文を付け再版した第三版です。

本文が100ページほどのこの「脱国営化論」において、ハイエクはお金の発行を国家が行うのではなく、民間が行うことを提案しています。

民間というのは、主に銀行です。銀行がお金を発行するというのは、例えば現在の一万円札の姿かたちはそのままに、印刷だけを銀行が行うという意味ではありません。「ダカット」のような独自の名称・単位をもつ独自のお金を各銀行が別々に発行しようというのです。

これは、ハイエクも認めているとおり「あまりにも奇抜で馴染みがない (much too strange and alien)」(「脱国営化論」第2章。以下、括弧付で該当する章を示します。) と感じられるアイデアなのですが、ハイエク自身はかなりの確信をもって理論を展開しています。

「脱国営化論」と仮想通貨

この「脱国営化論」は、仮想通貨と結びつけて語られることがしばしばあります。例えば、欧州中央銀行 (European Central Bank, ECB) のレポート「Virtual Currency Schemes, October 2012」では、ビットコインの理論的源流はハイエクを含めたオーストリア学派の経済学に見られるとし、「脱国営化論」にもふれています。

たしかに、「脱国営化論」という題名だけ眺めていると、ビットコインにピッタリ当てはまるような気がします。インフレを悪いこととみなしているなど、共通点もいくつかあります。けれども、筆者が思うに、両者は根本的なところで大きく異なります

「脱国営化論」の特徴

「脱国営化論」ではさまざまなことが語られていますが、その中から、ビットコインとの違いを念頭において、特徴を三つ紹介します。

特徴① 信頼できる民間企業

ハイエクは、もし自分がスイスの大手株式銀行の担当者だったらどうするか、と仮定して話を進めます (第8章) 。

はじめに、独自のお金「ダカット」を発行すると公表するのですが、その際、ダカットの価値を一定に保つよう、ダカットの供給量を調整するという決意表明を行います。人々は価値の安定したお金を使いたがるものであり、ダカットを普及させるには価値の安定化が重要だと、ハイエクは考えているからです。

ハイエクは、銀行が成功するかどうかは「credibility and trust」次第、つまり信用や信頼次第だろうと言います (第9章) 。銀行は、最初の決意表明で人々から信じてもらう必要がありますし、その後も人々を裏切らないよう、状況をよく見ながら供給量を調整しなければならないからです。

トラストの代わりに暗号学的証明に基づくシステムが必要だという、ビットコイン論文第1章の主張とは異なり、「脱国営化論」はトラストを生み出す民間企業に基づいているのです。

特徴② 商品と関係づけた安定化

ダカットの価値は、コモディティ (commodity) と関係づけて表します。「コモディティ」は、ここでは「商品」と訳してよいでしょう。具体的には、穀類や、牛肉、コーヒー、銅、石炭、アルミニウム等です。

銀行は、ダカットの価値に相当する商品を時々公表します。商品は一つとは限らず、組み合わせは銀行が決め、適宜変えてよいことになっています。

激しいインフレが発生し、昨日は5ダカットで買えたコーヒーが明日には100ダカット払わないと買えないのでは困りますね。そのようなことがあればすぐ発覚するように、あるいは事前に予想できるように、ダカットで商品を買える力、つまり購買力を日々明らかにしていこうというわけです。

ハイエクは、千人の追っかけ記者 (a thousand hounds) による厳重な検査 (close scrutiny) を想定しています (第9章) 。各お金の価値に関する情報が日々の新聞に掲載されるとしましょう。それを見た人々は、ダカットが不安定だと判断したら、別の銀行が発行するもっと安定したお金と交換するでしょう。そうした厳しい視線は、人々が使いたがる価値の安定した良貨を生み出す力になるというわけです。

特徴③ 競争

このような価値の安定化は、各銀行が競争 (competition) を行う中で実現されるとハイエクは考えます。

この場合の「競争」は、経済学の教科書に載っているような「完全競争」とは異なります。完全競争は、各人が十分な知識、情報を持っていると仮定しますが、ここでいう競争は、知識を発見していく過程です ※2

ハイエクは、「「最適な貨幣量」は、いかなる当局も事前に確定できない。 市場だけが発見できる。 (No authority can beforehand ascertain, and only the market can discover, the ‘optimal quantity of money’.)」と言います (第14章)。

各銀行は、これだけお金を発行するのが最適だ、などとあらかじめ決めておくことはできません。誰も、何が最適か分かるわけがないからです。各銀行は、他の銀行と価値の安定化を競い合う中で、供給量を調整したり、対応する商品の構成を変更したりしながら、何が最適なのかをさぐっていかなければならないのです。

需要と供給で変わる価値

それでは次に、ビットコインの価値に関するサトシの考え方を、適宜ハイエクと比較しながら見ていくことにしましょう。

冒頭のディリンジャーの指摘に対し、サトシは次のように答えています

The fact that new coins are produced means the money supply increases by a planned amount, but this does not necessarily result in inflation. If the supply of money increases at the same rate that the number of people using it increases, prices remain stable. If it does not increase as fast as demand, there will be deflation and early holders of money will see its value increase.

新たなコインが製造されるということは、貨幣供給量が計画されただけ増えることを意味します。けれども、このことは、必ずしもインフレーションという結果をもたらすわけではありません。もし、貨幣の供給が増えるとともに、貨幣を使う人も増えれば、価格は安定したままです。もし供給が需要ほどには速く増えなかった場合、デフレーションが発生し、初期の貨幣保有者は、貨幣の価値が増えたと考えるでしょう。

内在的価値が無いという指摘も、需要が無いという指摘も、まったく無視していますね。とにもかくにも需要は有るという前提のようです。

また、需要もコインの価値に影響するようですが、ビットコイン論文の第6章では「あらかじめ決めておいた数のコインが出回ってしまえば、… 完全にインフレーションから逃れることができる。(Once a predetermined number of coins have entered circulation, … completely inflation free.)」と、供給だけがインフレに影響するかのように書かれており、ちょっと整合性がとれていない気がします。

まあ、サトシ流の経済学に厳密さを求めるのはひかえて、第6章では多額の紙幣を大量に印刷するハイパー・インフレーションを念頭に置いていたので、需要は無視できたのだというぐらいにしておきましょう。

ディリンジャーへの回答から分かるのは、サトシは需要と供給によりコインの価値は変わると考えていたことです。そして、ハイエクとは異なり、ここでは商品に対するコインの購買力には一切ふれていないことに注意しましょう。

安定化より大事なこと

ビットコインの初期バージョン 0.1 を発表した時、サトシは Sepp Hasslberger という人物から、「ユーザー数に応じてコインの発行量の上限を変更できることも重要だ」と指摘されました。Sepp は「コインを長期的に利用するには、安定していることが望ましい」とも述べています ※3。「脱国営化論」と考え方が似ていますね。

サトシの回答は、以下のとおりです。

To Sepp’s question, indeed there is nobody to act as central bank or federal reserve to adjust the money supply as the population of users grows. That would have required a trusted party to determine the value, because I don’t know a way for software to know the real world value of things. If there was some clever way, or if we wanted to trust someone to actively manage the money supply to peg it to something, the rules could have been programmed for that.

Sepp の質問ですが、たしかに、中央銀行や連邦準備金制度のように、ユーザー数に応じてコインの供給量を調整する人はだれもいません。それをするには、価値を決定する信頼できる機関が必要だったでしょう。現実世界のモノの価値を知るためのソフトウェアの手法を、私は知りませんから。もしうまい方法があるなら、あるいは、もし誰かを信じて、何かと(価値を)固定するようお金の供給量を積極的に管理してもらうことを望むなら、そのためのルールをプログラミングすることはできたでしょう。

価値を安定化させるうまい方法を、彼自身は思いつきませんでした。だからといって、信頼できる第三者機関 (Trusted Third Party) すなわち TTP に依存するわけにはいきません。ハイエクが重視した価値の安定化よりも、サトシは TTP に依存しないことを優先したのです。

自身の設計への信念

けれども、コインの供給量にあらかじめ限界を設定してほんとうに良いのでしょうか ※4。先ほど見たとおり、ハイエクによると、最適な貨幣量は誰にも分かりません。

ブロック一つあたりに発行するコインは、ルールで決められていましたね。サトシはこのルールについて以下のように評価しています

Coins have to get initially distributed somehow, and a constant rate seems like the best formula.

コインは初めにどうにかして配らなくてはなりません。一定の割合(で発行していくこと)が最適な公式のように思われます。

根拠は明らかではありませんが、とにかく決められたルールに従いコインを発行していくのがベストだというわけです。

多くの人が指摘しているように、このルールは、経済学者ミルトン・フリードマン (Milton Friedman) の、いわゆるk%ルール ※5 に影響されたものと思われます。

その逆にハイエクは、k%ルールについて否定的です。流通しているお金が足りなくなったときに、「何が起こるかを私は見たくない (I would not like to see what would happen)」(第14章)と、混乱が起こることを示唆しています。また、「他ならぬフリードマンが、競争がより良い手段を普及させるという信念をほとんどもっていないことに、私はいささか驚いている (I am somewhat surprised that Professor Friedman of all people should have so little faith that competition will make the better instrument prevail)」という風に、競争に関する信念についても述べています。

それに比べると、サトシは技術者らしいというか、自身の定めた設計やルールの働きを信じる傾向が強いと言えるでしょう。

取引所と市場

価値の安定化を捨ててまで、TTP に依存しないことを選んだサトシですが、取引所については認める旨の発言をしています。

In the absence of a market to establish the price, NewLibertyStandard’s estimate based on production cost is a good guess and a helpful service (thanks).

価格を確立する市場が存在しない中で、生産費に基づく NewLibertyStandard の試算は妥当ですし、有用なサービスです (ありがとう)。

NewLibertyStandard というのは、ビットコインのフォーラムのハンドルネームです。NewLibertyStandard 氏は、ノードを運営する電力料金などに基づく USドルとビットコインのレートを日々公表し、交換に応じていました。現在の取引所とはかなり異なりますが、当時いくつか立ち上がっていた取引所の一つです。

個人経営とはいえ、この取引所は TTP です。そのことは、第3回の電子マネーの基本モデルの図と比較するとよく分かります。

銀行と取引所

銀行で行う引出・預入が、取引所で行うビットコインの買い・売りに変わっただけなわけです。このように、ビットコインの値付けという重要な役割を TTP が担うことに、サトシは疑問を感じなかったのでしょうか。

サトシは、後に次のように述べています

It’s not stable-with-respect-to-energy. There was a discussion on this. It’s not tied to the cost of energy. NLS’s estimate based on energy was a good estimated starting point, but market forces will increasingly dominate.

エネルギーに対し安定するのではありません。これについては議論済みです。エネルギーの費用には縛られないのです。NewLibertyStandard のエネルギーに基づく試算は、第一歩としては良いです。けれども、次第に市場の力が支配するようになるでしょう。

将来的には、市場の原理でコインの価値が変わるというわけです。その市場の原理とは、需要と供給のことでしょう。サトシはあくまで、コインの価値は需要と供給によって変わるものであり、いずれ取引所が左右できるものではなくなると考えていたようです。

コモディティのようなもの

ビットコインといえば、取引所で売買されるものであり、価格が大きく変動する投機的な側面が注目されているというのが現状でしょう。ビットコインで代金を支払える場合もあるとはいえ、円やドルはもちろん、電子マネーや、ここ最近話題の各種決済サービスなどとは、お金や支払手段としての存在感で大きく差をつけられています。

こうした現状は、必然だったようにも思えます。以下は、先ほどの Sepp への回答の続きです。

In this sense, it’s more typical of a precious metal. Instead of the supply changing to keep the value the same, the supply is predetermined and the value changes.

この意味で、(ビットコインは)貴金属とする方が合っています。供給を変えて価値を同一に保つのではなく、供給はあらかじめ決まっており価値が変わるのです。

また、あるときには、ビットコインを株式のようなものと考える人に対し、こう述べています。

Bitcoins have no dividend or potential future dividend, therefore not like a stock. More like a collectible or commodity.

ビットコインは、今も将来も配当はありません。ですから、株式のようなものというより、蒐集品やコモディティのようなものです。

サトシは、ビットコインがお金であることを主張するのでなく、貴金属などコモディティのようなものとみなしているわけです。※6

将来的には、ビットコインがお金として人々に受け入れられる可能性はゼロとは言い切れません。しかし、おそらくサトシは、あるときからビットコインがお金として使われることを、それほど期待しなくなったのではないでしょうか。

インフレという、お金の価値の変動を問題視している以上、価値を安定させる仕組みを持たないビットコインがお金であると主張するのは、さすがに無理があると思ったのかもしれません。そして、価値の安定や、お金らしくなることをあきらめてでも、サトシは TTP に依存しない仕組みに強くこだわったということでもあるでしょう。

インセンティブの事例

さて、ここからは後半です。揺れ動くビットコインの価値とインセンティブの中で、人々はどのように行動するのか、具体的な事例を見ていきましょう。主な参考文献としては、ビットコインの初期五年ほどのルポとして著名な、ナサニエル・ポッパー (Nathaniel Popper) の「Digital Gold」を参照します。

事例① ArtForz の場合

2010年7月下旬、サトシとギャヴィン・アンドリーセンは、一通のメールを受け取りました。差出人は、ArtForz というドイツのプログラマーです。

ビットコインはオープンソースです。ArtForz はソースコードを見て、「1 RETURN バグ」と呼ばれる脆弱性を発見していました。このバグを突くと、他人のコインを簡単に盗むことができます。

サトシとアンドリーセンは、脆弱性については秘密にしたまま修正したコードをリリースし、事なきを得ました。脆弱性を悪用せず、善意と技術者魂に動かされ報告した ArtForz によって、ビットコインは救われたのです!

めでたしめでたし、でふつうは終わるところですが、ビットコインは違います。

ポッパーの「Digital Gold」によると、当時の ArtForz はネットワーク・ノードを運営し、コインを稼いでいたのだそうです。CPU ではなく、当時まだ新しかった GPU を用いる方式を採用していたそうなので、かなりの力の入れようです。

もしも ArtForz が脆弱性を悪用してコインを盗めば、短期的には得をするかもしれません。しかし、信頼を失ったビットコインは、その価値を大きく下げることでしょう。

ArtForz が報告したことについて、ポッパーは「ビットコインのインセンティブがそれを促すよう設計されていたのだ (what the incentives in the Bitcoin sysmtem were designed to encourage.)」と評しています。「市場のインセンティブが、意図したとおりに働いた (The market incentives were working as they were supposed to work.)」のだそうです。(「Digital Gold」第5章)

納得いかない人もいるかもしれませんが、このように、ArtForz のような個人の意思は、インセンティブの観点からは無視されがちです。そのかわりに、組み込まれているインセンティブの仕組みがうまく働いたことが称賛されるのです。

事例② BTCGuild の場合

第7回の BIP50事件において、BTCGuild は事件を解決しようと、新バージョンから旧バージョンに切り替えました。BTCGuild は新バージョンのチェーンで既に何枚もコインを獲得していましたので、切り替えることはそれらのコインを捨てることを意味しました。

それにもかかわらず旧バージョンに切り替えたことを、BIP 50 は「多大な犠牲にもかかわらず (despite the fact that this caused them to sacrifice significant amounts of money)」行われた正しい行動として記録しています。

ポッパーの評価はちょっと違います。BTCGuild を含め事件の対応にあたった人々に対し、「サトシが組み込んでおいたインセンティブがまたもや意図したとおりに働いた (the incentives that Satoshi Nakamoto had built into the network had again worked as intended)」、「個人的な利得よりも、共通善に目を向けることを促した (encouraging people to look out for the common good over short-term personal gain.)」と言うのです (「Digital Gold」第19章) 。結果がどう転がるか分からない中で下された BTCGuild の決断については置いておいて、再びインセンティブの仕組みを称賛しているのです。

経済的多数派

BTCGuild の件については、もう一つ別の見方があります。BTCGuild はマウントゴックス (Mt.Gox) の側に流れただけという見方です。

マウントゴックスについては、2014年の各種報道でご存知の方も多いでしょう。世界最大と言われたこの取引所では、コインと不換通貨との交換が盛んに行われ、ビットコインのネットワークに大きな影響力を持っていました。

このように、PoW を行うパワーではなく、金銭的な観点で大きな力をもつ存在を、経済的多数派 (economic majority) と呼ぶことがあります。

BIP50事件当時、マウントゴックスが使用していたのは旧バージョンです。BTCGuild や、そこに参加しているノードが、仮に新バージョンを使い続けたとしても、マウントゴックスでは発行したコインを換金できません。マウントゴックスが使っている旧バージョンは、新バージョンのチェーンを受け入れないからです。

マウントゴックスに合わせなければ、この先いくらコインを発行しても無駄になる可能性が高いです。それよりも、新バージョンのコインは捨てて、旧バージョンに切り替える方がもうかるはずです。

共通善など関係なく、あくまで自己の利益を追求して経済的多数派に流れただけというこの見方は、先ほどのポッパーよりもさらにインセンティブの力が強調されていると言えるでしょう。

一方で、ビットコインのコア開発者 Pieter Wuille は、マウントゴックスは関係なかったとコメントしています。「事件を早期に収束させるためには、旧バージョンに切り替えることが唯一の解決方法だった」のだそうです ※7。インセンティブが果たしてどこまで影響力があるのかというのは、なかなか評価が難しい問題なのです。

サトシのインセンティブのポイント

ここで改めて第6章をもとに、サトシがインセンティブをどのように考えて設計したのかについて、筆者の思うポイントを三つ紹介します。

一つ目のポイントは、ノードに対するインセンティブである、ということです。コインの発行と手数料という、コインを稼ぐ手段を提供することで、軽量クライアントではなく、ネットワーク・ノード(マイナー)になる気持ちを引き出そうとしたのです。

先ほどの ArtForz の例で言うと、ノードの運営者としての ArtForz の行動については、サトシの設計したインセンティブでも説明可能でしょう。しかし、ソースコードを読み解いた技術者としての ArtForz の行動まで、サトシの意図したインセンティブで説明するとしたら、それは行き過ぎと言えるでしょう。

二つ目は、二重使用攻撃を防ぐインセンティブである、ということです。サトシは、たとえ二重使用攻撃が成功する条件がそろったとしても、攻撃を思いとどまらせるものとしてインセンティブを考えていますが、それ以上のことは書いていません。当たり前ですが、あらゆる問題を解決できる仕組みとは考えていないわけです。

例えば、ArtForz は二重使用攻撃を成功させるだけのパワーを持っていなくても、攻撃を強く好む人であったならば、さっさと持っているコインを売り払った上で脆弱性を突いていたかもしれません。ポッパーは、ArtForz が脆弱性を悪用しなかったことは「ちょっとした奇跡 (a minor miracle)」だったとも書いています。

三つ目は、行動を促すインセンティブである、ということです。第6章をよく読んでみると、「促すのに役立つかもしれない (may help encourage)」と書いてあります。インセンティブはあくまで誘因であり、絶対確実に意図したとおりの結果をもたらすことを約束するものではないのです。

サトシの設計したインセンティブは、あらゆる人のあらゆる行動を説明・コントロールできるものでもなければ、あらゆる問題を絶対確実に解決できるものでもありません。

インセンティブが、ビットコインを支える特徴的な仕組みの一つであることは確かでしょう。しかしながら、サトシのインセンティブでは説明しきれない人々のさまざまな意思や行動もまた無視できません。

それを示すエピソードが、特に初期のビットコインには多く残されています。以下では、そのいくつかを紹介していきます。

アンドリーセンのフォーセット

2010年6月、ギャヴィン・アンドリーセンはビットコイン・フォーセット (Bitcoin Faucet) というサービスを公開しました。

フォーセットは、無料で少額のビットコインを配布するサービスです。当初、一日あたりIPアドレスベースで一人五枚のコインを受け取れたと言います。元手になるコインは、アンドリーセンが自腹で購入したり、寄付を募るなどしていたそうです。

なぜそんなことをするのか。アンドリーセンは、「ビットコイン・プロジェクトに成功してほしいからですし、人々がお試しでコインをちょっと手に入れられたら、より成功しやすいだろうと思うからです。 (Because I want the Bitcoin project to succeed, and I think it is more likely to be a success if people can get a handful of coins to try it out.)」と語っています。コインは使われてこそ意味がある、と自ら考え、行動に移したわけです。

サトシはフォーセットを「nice work」と称賛し、「誰もやらなかったら、これと同じことを私もやろうと思っていたのですよ (I had planned to do this exact thing if someone else didn’t do it)」とまで言っています。さらには、寄付の呼びかけに応じる者もいれば、サービスの欠陥を見つけて悪用せずに報告する者まであらわれました。

ラズロのピザ

第2回でピザを購入した L氏ことラズロ・ハニェッツ (Laszlo Hanyecz) は、GPU を用いた PoW のパイオニアと言われています。どうりで、ピザ2枚にコイン1万枚も出せるはずですね。

今となっては超高額のピザだったわけですが、実は当時の相場としてもやや割高でした。フォーラムには、「ビットコイン1万枚は41ドルに相当する」と指摘する投稿が上がっています。大きいピザが安く買えるアメリカにおいて、ピザ1枚に20ドルも出すと数ドルは損します。

それでもラズロは気にしなかったようです。彼の目的は「ホテルで朝食をとる ('breakfast paltter’ at a hotel)」ような気分を楽しむことであり、「ビットコインでピザを買ったと言えたら面白いだろう (I just think it would be interesting if I could say that I paid for a pizza in bitcoins)」と考えていたのでした。ノードを運営している人が、常に金銭的な損得だけに従い行動しているわけではないのです。

ディリンジャーの協力

レイ・ディリンジャー自身の証言によると、冒頭の指摘を投稿したとき、実はろくに論文を読んでいなかったのだそうです。しかし、まじめに論文を読んでみると、相変わらずお金としての価値には疑問が残るものの、非常におもしろいと感じたと言います。

やがてディリンジャーは、メーリングリスト外でサトシと議論するようになり、ソースコードのレビューを行うなど、ハル・フィニーとともに最初期のビットコインの開発に協力するようになりました。

その経緯を語るインタビュー記事で、ディリンジャーは「INTERESTING」という単語を連発しています ※8ディリンジャーが協力した決定的要因 (clincher) は、ビットコインがおもしろかったからであって、コインの価値ではなかったのです。

サトシの紳士協定

最後はサトシです。2009年12月、GPU による PoW が広まりつつあったことを、サトシは不安視していました。

第5回で説明したとおり、いくら GPU で高速に PoW を行っても、大勢が GPU を使用して競争が激しくなったり、時間が経って難易度が調整されれば元通りです。また、CPU を使うであろう新規ユーザーはコインを獲得しづらくなり、ビットコインの普及は進みません。

そこでサトシは、フォーラムで以下のように呼びかけます

We should have a gentleman’s agreement to postpone the GPU arms race as long as we can for the good of the network. It’s much eas(i)er to get new users up to speed if they don’t have to worry about GPU drivers and compatibility. It’s nice how anyone with just a CPU can compete fairly equally right now.

ネットワークのために、私たちは紳士協定を結んで、GPU による軍拡競争をできる限り先延ばしにすべきです。もし GPU ドライバーやその互換性について悩む必要がなければ、もっと簡単に、期待通りの速さで新規ユーザーを獲得できます。今すぐ CPU だけで、誰もが極めて平等に競争できたら素晴らしいではないですか。

今はインセンティブに従い争ってコインを獲得すべき時ではない、というわけです。かわりに、紳士協定 (gentleman’s agreement) を結んで、平等に (equally) しようと言うのです。

これは、結局ルールを決めるのはサトシであって、実質的にサトシが TTP ではないかとも感じられる発言です。けれども、ここで注目したいのは、サトシがいついかなる時もインセンティブが有益であるとは考えていなかったということです。ネットワークの参加者は、移り行くネットワークの状況をよく見て、時にネットワークのために行動することを期待されているのです。

おわりに

今回は、前半でハイエクの「貨幣の脱国営化論」と比較しながら、ビットコインの価値に関するサトシの考え方について見てきました。また、後半では、インセンティブの特徴を、具体的な事例をもとに説明しました。

ハイエクとは異なり、サトシは価値の安定化よりも TTP に依存しないことを優先しました。おそらくはそのために、ビットコインがお金であることはあきらめ、コモディティとみなすようになったようです。サトシにとって、TTP に依存しないことはそれほど重要なことでした。

インセンティブは、ともすると影響力が強く、万能なものとみなされがちです。しかし、ビットコイン論文をよく読めば、サトシの設計したインセンティブの対象や効果は限定的であることが分かります。また、サトシ自身も紳士協定や平等を唱えることがあるなど、ビットコインのネットワークを支える力はインセンティブだけとは限りません。

ブロックチェーン・プロジェクトの中には、インセンティブ設計を非常に重視しているプロジェクトが散見されます。たしかにインセンティブは、問題を解決する上で有効なこともあるでしょう。けれども、ビットコインがインセンティブでは説明・コントロールしきれない意思や行動にも支えられてきたことに目を向けてみると、技術や設計、ルールとはまた違った、プロジェクト成功のヒントが得られるのではないでしょうか。


※1: こうした議論に興味があれば、「不換通貨」の他に、「表券貨幣」や「商品貨幣」「金属主義」といったキーワードで検索してみるとよいでしょう。

※2: 詳しくは、参考資料に挙げた「The Meaning of Competition (競争の意味)」等を参照。

※3: Sepp:「It is important that there be a limit in the amount of tokens/coins. But it is also important that this limit be adjustable to take account of how many people adopt the system. If the number of users changes with time, it will also be necessary to change the total amount of coins.」「Stability of the coins’ value is desirable for long term use.」

※4: 例えば、小数点以下8桁まで含めたビットコインの発行上限、約2の52乗を世界の総人口で割ると、1人あたり100万にも満たないので、ビットコインが世界唯一の通貨になるのは無理があるのでは、というような話があります。興味があれば、世界各国のマネーストック統計とも比較してみましょう。

※5: 「現時点で持ち合わせている知識から判断する限りでは、望ましいのは通貨供給量についてルールを決めておくことである。当面は通貨供給量の伸び率を決めておき、金融当局はこれを達成するよう法律で定めるのがよかろう。」(参考文献「資本主義と自由」第3章 国内の金融政策 より引用) この後でフリードマンは「私がいま述べたルールが通貨管理の究極の原則であって未来永劫これを守るべきだ、などと言うつもりは毛頭ない。」とも述べています。

※6: これらサトシの発言より先に、ハル・フィニーが「通貨よりゴールドに近い (This would be more analogous to gold than to fiat currencies.)」と述べたことも影響したのかもしれません。

※7: Pieter Wuille: 「Though it was BTCGuild suggesting to switch to 0.7 to resolve the fork, and this was indeed after asking Mt.Gox what they were using, we (several people in #bitcoin-dev at the time, including me) immediately agreed that was the best solution. I can’t speak for others, but for myself that had nothing to do with Mt.Gox, but simply with the fact this was the only solution that didn’t require an immediate hard fork of the network.」

※8: 「… absolutely the clincher for me; it was very very INTERESTING! … But it was INTERESTING! … Anyway, problems aside, it was INTERESTING! … that had been INTERESTING! … which were also INTERESTING!」

参考資料

前半:

後半: