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「ファイナンス理論で考える原発と正義の話(その2)」

2012.01.17 さくら情報システム株式会社  遠山 英輔

 昨年の8月に「想定外」の怪我と入院、その後のリハビリなどで大変長々と休載させていただきましたが、本号から復帰いたします。改めて宜しくお願いたします。
 原発の話は、前号の昨年8月以来、いろいろな動きがありました。その中では、リスクリターンやコストをふまえた議論の深まりも見えてきています。筆者としましては、本件にかかるすべてのステークホルダーのリスクリテラシーが一層高まってゆくことを期待しつつ、事態を引き続き注視したいと思っています。
 さて、前回の本稿で、原発のリスクリターンの話を、オプション理論とNIMBY(Not In My Back Yard : 裏庭に原発はお断り!)の観点で考えてみたいと書きましたが、まず議論を「リスクコミュニケーション」と「想定外」いう視点でおさらいした上で、改めてこの議論に取り掛かりたいと思います。

 「リスクコミュニケーション」とは、金融機関では広く認識されている概念です。銀行監督の元締めであるバーゼル委員会(BIS)が定めた「コーポレートガバナンスを強化するための諸原則」には、『組織内の異なる立場の意見、情報を持ち寄り、議論を繰り返すことによって、リスクに関する理解を深めてゆくこと』という定義がなされています。これは、銀行のリスク管理における一種の憲法の様になっていますが、銀行にとどまらずリスクマネジメントにおける普遍的なコンセプトとも言えるものです。
 業種こそ異なれど福島原発問題では、このリスクコミュニケーションがいかに働いていなかったかという点がポイントになります。その第一の背景は、前号で取り上げた「格納容器神話」(大前研一氏の指摘)と呼ばれる当局の論理にありそうです。すなわち、「事故を起こす確率は限りなくゼロに近いけれども、百歩譲って最悪の事態が起こって核暴走を始めたとしましょう、その時でも放射性物質は格納容器の中に収めてみせます。」(文藝春秋社刊、日本復興計画より)この論理に安住してしまえば、リスクの所在や可能性を議論すること自体封印されてしまいます。そして、格納容器から核燃料が漏れ出すメルトダウンは不幸なことに現実のものとなってしまいました。
 今一つ付け加えるべきマインドセットが、盛んに使われた「想定外」という言葉になろうと思います。災害や事故にかかわる報道で著名な柳田邦男氏によれば、想定外とは「『それ以上のことはないことにしよう』『考えないことにしよう』としてきた思考様式に免罪符を与えるキーワード」(文藝春秋社刊、「想定外」の罠より)となります。この免罪符を格納容器神話で裏打ちしてしまったがゆえに、当事者の政府と電力会社が率先して不都合な現実、すなわちリスクから目をそらしてしまったというわけです。これでは関係者の間で地に足のついた「リスクコミュニケーション」が取れないのは当然のこと、まさしく戦時中の神国日本の不敗神話のようなものですね。
 ここでまず銘記しなければならないことは、原発推進派の人々や地元の人々も含め他のステークホルダーもこうした危うい論理と現実の上に、知ってか知らずか居たということです。しかし、今後の教訓として、また今後どのように原発に向き合って行くかを考える原点として、このことは重く受け止めてゆく必要がありそうです。もっと厳しく政府と電力会社を監視してゆくという『権利と義務』が地元の人々にはあると言って良いかもしれません。さらには、リスクコミュニケーションは、こうした人々はもちろん、電力を使う我々一人一人、すなわち電力需要者兼発電のコストを負担する者も、その重要なステークホルダーの一員として含む必要があります。

 さて、こうしたことを踏まえて、いよいよオプション理論の視点も交えて検討を始めてみましょう。

原発事故のモデル図
図 1 原発事故のモデル図

 まずこのモデル図の上半分ですが、これは横軸に事故の規模、縦軸に事故の発生確率をあらわしています。非常に大雑把に言えば、『小規模な事故は数多く起こるが、非常に小さい確率ではあるが大きな事故も起こりうる』という単純な事実を、右に裾を引いた曲線が示しています。こうした大きな事故を一般に「テール事象」などと呼称しますが、「想定外」の事象がどのくらいのレベルの「テール事象」から先を指すのかを明確化し、それは「備えようが無いね」というコンセンサスにするかが真のポイントになります。例えば、『宇宙人の襲来で原子炉が破壊されるのはさすがに想定しなくてもいいよね。でも1000年に一度の津波を想定外にするのはまずいんじゃない?』といった認識を共有してゆくことが、リスクコミュニケーションの一つの側面という言い方が出来ようかと思います。
 ここで、重要なのが赤の点線のレベル、すなわち想定内と想定外の境目になります。原発問題の一つの本質は、この境目を自分たちの都合(原発は他の発電方法よりもコストが安いことにしたい)で先に引いて、その範囲内につじつまが合うようにすべてのことをはめ込んでいたとおぼしき点が垣間見える、という点だと言って良いと思われます。

 しかし、あるべき論ということで言えば

(1)備えるべきリスクの水準はどのくらいかをまず見極める(先に赤の線の位置を定める)。
端的には、何年に一度?まで備えるかでコンセンサスを作る。
(2)それは、原賠法(原子力損害賠償法)と電力会社の自己資本でまかなえるのか?を検証する。
(3)まかなえないとすれば、もっと電力料金を上げてコストをカバーする、増資する、原賠法を改正する、などの手段を講じる。
(4)あるいは、そのリスクは民間(電力の利用者も含む)では取れないと見切って、政府の役割とする(これが国有化の真の意味))
 という順番で考えてゆくべきというのが、一つの整理になります。この順番で考えて、始めて原発のコストは高いのか安いのかを、他の発電方法ときちんと比較できようというものです。

 図の下半分は、原子力発電の損益を示しています。小さな事故であれば、その対応コストも含め損益は黒字ですが、事故の規模が大きくなればそのコストも膨らみ、損益はマイナスになるということを表しています。さらに、リスク資本の水準という書き方をしていますが、損害が資本の水準を割り込む状態を黄色の領域で示しています。原子力賠償法に基づき賠償費用は政府に負担してもらえたとしても、それ以外の損失(火力への切り替えコストや廃炉費用など)は自力でまかなえず債務超過(損失>資本)になる、という状況が黄色の領域にあたります。
 さらに、この図の下半分ですが、これは実はファイナンスでよく使われるオプション取引(コール・オプションの売りという言い方をします)、あるいは保険取引のペイオフと全く同じです。こうした取引を一言で言えば、「誰かの危険を引き受ける(保険金支払義務を負う)かわりに、先に一定の報酬(保険料)を受け取る」ということになります。原発の話も自分が自動車保険に入るときのことを考えると非常にシンプルに理解できるということになりますね。ここでは、その保険を引き受けた人が、電力会社、政府、そして地元の人達だと考えればよいことになります。
 この考え方、すなわちオプション取引のプレーヤーのリスク、コスト、利益の負担の図式が、NHK教育テレビ「ハーバード白熱教室」でお馴染みのサンデル教授の「正義(Justice)」の話に直結してきます。また、本稿では「政府と電力会社を監視して行く権利と義務」というフレーズを使いましたが、何だかちょっと教授の議論のようになってきたかもしれません。いずれにせよ、これはNIMBYの話とあわせて、正義の話として最終回の次回で論じてみたいと思います。

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