「イノベーションの育て方 ～ハナさんのストーリー～　（５１）」

「...以上、想定顧客数とサービス利用料に、原価を照らしあわせてみたのがこの表です。この収支計画で進めたいと考えています」
経営会議での説明は、最後の収支計画のページになっていた。
「ご覧いただければおわかりのように、3年目の下半期あたりから黒字に転じることができると考えていまして、それまでの投資も5年目には回収できる計画となっています」

ん？、反応が薄い。顔を上げて周囲を見渡す。

ここまでの説明では、みんな興味津々といった風で、活発に質問があったし、和やいだ雰囲気だったのに、急に空気感が変わった。とりあえず、言うべきことを言ってしまおう。

「ご説明は以上です。事業化のご判断をよろしくお願いいたします」
とまで言って、再び周囲を見渡す。

みんな、下を向いたり、腕を組んで宙を見上げたり、パソコンの画面をにらみつけていたり...。気のせいか、私に視線を合わせたくないようにも感じる。気まずい時間だけが流れていく。

長い沈黙の末に、口を開いたのは社長だった。
「皆さんもご理解いただいていると思うが、新聞というメディア自体が終焉を迎えつつある。新聞が世の中から消え去るかどうかはわからないものの、ビジネスとしてみれば間違いなく縮小していくだろう。そのためには、新しいビジネスが必要だ。私はこのサービスを立ち上げるべきだと思うが、もちろんリスクもある。忌憚のない意見を述べてくれ」

「では質問させてください」
と口火を切ったのは、業務部長だった。
「このビジネス案がわが社を救うという保証はあるんですか」
わが社を救う？
確かに社長は、今のビジネスへの危機感を口にした。でも私たちが悩んでいたのはこのサービスが独り立ちできるかどうかというレベルだ。会社を救うなんて思いもよらない。何か答えなければという気持ちばかりで何も思いつかない。

「では、質問を変えましょう。3年後に収益化できる保証はあるのでしょうか」
「この想定顧客数を前提にすれば、大丈夫です」
ようやく言葉にすることができたが、すかさず、
「その顧客数がどの程度確かなのかという質問です」
とツッコミが入る。
慌ててパソコンから、資料を見つけて投影する。
「このグラフは、この地域の独居世帯数をプロットしたものです。このように年々増加しているわけでして、このサービスがターゲットにしている子世代と離れて暮らす老夫婦も同じように増えているはずです」
「それはわかるよ。でも、その人たちの何パーセントがこのサービスを使ってくれるんだね」
「あ、はい、テストマーケティングの感触からすれば...」
すかさず別の声がつっこむ。
「確かにテストマーケティングでの反応が良好だったとの報告は聞いた。でも、感触というのは主観でしかないだろう」
「確かに主観ではありますが...」
「しかも、このサービスを考え出した人の主観だ。当然バイアスがかかっているだろう。厳しい言い方かも知れないがね」
「少なくとも、この程度の情報では、リスクを評価できない」
「これは本当にうちがやるべきことなのかな。警備保障会社とかがやるべきことなんじゃないの」
「いえ、警備保障会社のサービスとは本質的に違っていまして。あの、類似サービスとの比較資料があるので、今お見せしま...」
「もっとリサーチが必要なのではないか。マーケティングリサーチの会社に頼むとかすれば...」
「それはそれで、コストがかかります。確かにテストマーケティングのユーザー数は多いとは言えないですが、でも...」
「これで事業化を承認しろと言われても。時期尚早じゃないの」

指摘に答えるだけでも必死なのに、私が答え終わるまでに別のツッコミが入る。その都度、反論の根拠となるデータを表示するのにパソコンを覗き込むが、表示したときには別のツッコミが入る。もはやどれが誰のツッコミなのかもわからなくなっていった。議事録を頼んでいた大森くんに眼を向けると、怒りを押し殺したような表情で固まっている。壁の時計は12時過ぎを指していた。

「時間も無くなりました。新事業企画室にはいったん持ち帰っていただくということでどうでしょうか」
困惑気味のトダケンがみんなに告げる。5月と全く同じ幕引きになりつつある。それだけは避けたい。いや、避けないといけない。

「ちょっと待ってください」
思わず声が出た。みんな何ごとか？という表情だ。席を立ちあがりかけていた気の早い人は、中腰のまま私に眼を向ける。
「もう一度、議論していただく機会をください。来月、いや来週にでも」

「来週はもう議題がいっぱいですね。えーっと」
さらに困惑した顔になったトダケンが、パソコンを覗き込む。
「その次の回、2週間後ならまだ枠が空いています」
「では、その時間を私に、あ、いや新事業企画室にください」

「いいんじゃないかな。会社の未来を決める重要なことだ」
何人かが何か言いたそうな顔をしたが、社長がそう言うと黙って部屋を出ていった。

とりあえずリベンジの機会は作った。
でも何か策があるわけではない。言ってしまってから後悔の気持ちがアタマをもたげかけたが、このまま先延ばしにしたくないとの気持ちの方が勝っている。

「ハナさん、ありがとう。いやはや、不甲斐ない社長で申し訳ない」
会議室に残っている私に、社長が近づいてきた。

"社長なんだから、鶴の一声で決めてくれればいいのに"。以前の私なら、そう思っただろう。でも今はわかる。これからビジネスを立ち上げるのだ。ここで否定的な意見を無理に押し切っても先が続かない。うちのような小さな会社で新しいサービスを立ち上げるには、組織をまたいだ協力が必須なのだ。この場を権限で押し切ったら後々まで不協和音が絶えなくなり、いずれ失速するに違いない。きっと社長も同じ考えだろう。

「でも2週間で、みんなを納得させる根拠を準備できるのかね」
「いえ、実は全くアテはありません。でもメンバーと相談すれば、何か策は考え付くと思います。佐野さんにも相談してみます」
そういう私を見て、社長はにっこり微笑んでこう言った。
「よし、わかった。私にできることがあれば、何でも言ってくれ」

そう言って去っていく社長の背中を眺めていた。気がつくと会議室には、私と大森くんだけが残っていた。

＜つづく＞