「イノベーションの育て方 ～ハナさんのストーリー～　（５５）」

プロジェクターにホワイトボードの写真が投影される。6月のワークショップで役員の皆さんと考えた"5年後10年後のありたい姿"だ。

・地域とのつながりが深く、地域の人たちに愛されている
・会社を通じて地域に貢献・恩返しができている
・社員が自分の会社を好きだと思っている

「少し時間をさかのぼって、このときのことを思い出してください」
と喋り始める。不思議と気持ちは落ち着いている。

「ここには、皆さんの思いが語られているはずです」
「このとき検討チームはまだ無かったのですが、チームの立ち上げのときメンバーに説明したら、全員がこの内容に共感してくれました。だからこそ私たちはここまでやって来られたのです。もう一度、考えてみてください。将来この会社にどうなって欲しいのか、そこで働く人々が会社を愛するためには、どういう会社であればいいのか」

ときおり自分の気持ちだけ先走りしそうになると、役員たちの目を見るようにする。私の言葉は届いているだろうか。
前回は各々に資料を見たり、天井を見上げたりしていた。私からではなく新規事業失敗というリスクから目を背けたかったのだろう。でも今回は、みんなまっすぐ私の顔を見て耳を傾けてくれている。
自分の思いを伝え、みんなの気持ちを引き出すのだ。伝えるべきは、私たちが何をすべきかではなく、私たちがどうありたいかなのだ。

「以上です。よろしくご検討をお願いします」

あまり時間を意識していなかったが、私の話は5分もかかっていないだろう。
でも、ひととおり、伝えたいことは伝えたつもりだ。

何となく、みんな穏やかな良い表情をしているように見える。
でも誰も何も言わない。
そのまま沈黙の時間が流れる。
やはり前回と同じ結末になるのだろうか。

「ちょっといいかな」
社長が手を挙げた。

「このホワイトボードに書かれている内容は、私たちの偽りの無い気持ちのはずだ。私たちは、この地域の皆さんに育てられてきた。そして私たちはこの地域のために働いてきた」
決して大きな声ではないが、自信に満ちた落ち着いた声だ。
「地域に貢献するのが、わが社の真のミッションであり、新聞はその手段でしかない。そしてこれからも私たちは地域に貢献し続けなければならない。でも、新聞というメディアが縮小し始めていてる。であれば新しい手段を見つけ出さないと、わが社の存在意義が無くなってしまう」
一息ついてから、私たちを指す。
「幸い検討チームが良いアイデアを出してくれた。地域のご家族だけではなく、販売店さんや配達員さんにも新たな活躍の場を提供できる素晴らしいアイデアだと私は思う。新しいビジネスアイデアを考えて検証するなんて、わが社では全くやったことの無いことだから、みんな常に失敗の不安を抱えながら進めてきたはずだ。それでもここまでビジネスの可能性を検証してくれた。それに投資を最小限に抑える算段もしてくれている。今度は私たちがリスクに向き合う番だと思わないか」

何となく会議室に暖かい空気が流れているように感じる。
さぁ、どういう結論が導き出されるのか？

「役員の皆さん、何か追加の質問やコメントはございませんか」
頃合いをみて、司会のトダケンが声を掛ける。
「岩崎室長、他に追加の説明はありますか」
「あ、はい。特にありません」

「では、この後、役員の皆さんで議論していただきますので、検討チームの皆さんはご退出ください」

え、何それ？この場で判断してくれるんじゃないの？
戸惑った顔のまま、福石さんと目が合うと、あとは偉い人たちに任せよう...そんな表情で大きくうなずいてくれた。
きっと大事な決定事項の、うちの会社なりのお作法なのだろう。ちょっと釈然としないが、あとは運を天に、いや判断を役員に任せることにして、ドアに向かって歩き出す。あ、でももう一言だけ。

「あの...、よろしくお願いします」
ドアのところでふり返って、深々と頭を下げた。
顔を上げるとき、あの苦手な坂根部長が、こちらを見てにっこりと笑いかけるのが目に入った。私の勝手なイメージだけど、一番反対しそうなのが坂根部長だったので意外だった。事業化に賛成してくれるのかな...ちょっと期待しながら会議室を出た。

＜つづく＞