「イノベーションの育て方 ～ハナさんのストーリー～　（６０）」

社長の言葉が続く。

「そもそも今回のサービスは、配達員さんに訪問してもらうことが前提だ。でも新聞というメディアが縮小する中で、配達員さんに頼るビジネスモデルはサステナブルとは言えんだろう」
それは私も前から気づいていた。
「でもこの問題は新サービスが成長しながら、解決策を模索して行けばいいと思っている。えーっと何だったっけ、サービスの一部を変えるやつ...」
「ピボットですね」
「そうそう、そのピボットだ」
「ピボットとは、サービスの一部分を残して他を方向転換することです。対象ユーザーやサービス範囲やビジネスモデルが変わることを言います。今回は、ピボットすることなく事業化まで来ましたが、事業化後でも状況に応じてピボットできる柔軟性は維持しておかないとダメです」
と、解説する佐野さん。

社長が続ける。
「ハナさんはわかっているだろうけど、今は事業化が決まっただけで、事業が成功するかどうかはこれからだ。でもね、新サービスの成否以前に、私はすでに大成功していると思っているんだよ」
「それは、どういうことですか」
「それは人を作ることができたからだよ」
いつものように温かいけど、いつになく強い視線で私を見つめた。
「うちの社員はみんな真面目だ。それは良いことなんだが、真面目であるがゆえに目の前の仕事をちゃんとやることばかりに意識が行くようになった。自組織の論理ばかりが先行して、お客様や社会が見えなくなりつつあった。そして、仕事の仕方を変えたり、新しいことに挑戦することができない人たちが多くなってしまった」

「でも今回の活動を通して、自分たちで目標を設定し、新しいことにどんどん挑戦する人たちが登場してきた。それはハナさんのおかげだ」
「いえ、それは他の人たちのおかげです」
大きく首をふって社長が続ける。

「いや、ハナさんのおかげだよ。この地域の人々を幸せにしたい、この地域を良くしたいと一番思っているのがハナさんだ。萩原くん、水沼くん、大森くん、いや福石だって大きく変わった。大森くんもずいぶん成長した。ハナさんの思いが彼らに伝わったからこそ、彼らが変わったんだ」

「だからハナさんにお願いしたいのは、彼らのような社員をたくさん作り出すことなんだ。新規サービスの立ち上げはその手段だ。ああいう人たちが増えていけばうちの会社はきっと生き残れる、いや大きく飛躍できるはずだ。これが社長としての...」

姿勢を変えて社長がまっすぐこちらを向いた。
「最後のお願いだ」

そんな風に思ってくれていたのか。心の中に熱いものが押し寄せる。とっさに返す言葉が思いつかない。あ、もうひとつ聞きたいことがあったっけ。
「ところで、社長は来月からどうされるんですか」
「あぁ、話す約束だったな。記者時代から、この地域の農業をもっと活性化したいとは思っていたんだが、佐野さんが農業のデジタルトランスフォーメーションに取り組んでいると聞いて、詳しく話を聞かせてもらおうと思ったんだ」
打合せとは、それだったのか。
「まだ何をするかは決めていないし、何ができるかもわからない。でも幸い、仕事を通じてのネットワークもある。漠然とだが、いろいろな技術や知見を持つ人を集めて、農業を支援する団体を作れないかと思っているんだ」
「ええっ、それは素晴らしいですっ！」
心底そう思った。
「でも一歩足を踏み出せたのは、ハナさんたちを見ていたからだ。まだまだ自分もこの地域の役に立てるんじゃないかと思い始めてね。だから、私もハナさんが変えた一人だな」

いよいよ明日がサービスイン。
ここまで来るだけでも順調とはいかず、想定外のことばかりだった。特に新しい感染症が全国的に広まったことは、いろいろな意味で大きかった。東京大阪などの大都市の非常事態宣言が何度も延長された。でも意外なことに、そのせいでサービスの認知度が急上昇したのだ。
もし、配達員さんが感染症を蔓延させると大変なことになる。サービスインを延期するという案も出たのだが、そのピンチをチャンスに変えようと言い出したのは水沼さんだった。運用チームが配達員の行動ルールを防疫的観点で大幅に見直してサービス企画チームに提案し、マーケティングチームがメディアを通して安全性をアピールするという素晴らしいチーム連携の結果、簡単に帰省できなくなった都市部の子供世代からの注目度が急にアップしたのだ。

一日の仕事を終えて保育園に向かう。今日でサービス企画チームの一員としての仕事は終わり。地域リレーションサービス部との兼務が外れ、明日からは新事業企画室の専任に戻る。新しいメンバーと次の新しいサービスを創るのだ。

「ママーっ」
保育園の門をくぐる私を見つけた息子が駆け寄って抱きつく。
今日も園庭でたっぷり遊んだんだろう。草と土と汗の匂いがする。
抱き上げると、また少し重くなったようだ。いつの間にか成長しているものなんだな。
この子が将来、どういう職業につくのかはわからない。それは息子が決めることだ。でも社会の役に立つ人になって欲しい。親としての願いなんて、それだけなのかも知れない。

そう考えると、新しいサービスも同じだと気がついた。
今はまだ、どういうサービスになるかわからない。それはこれからチームで決めることだ。でもこの地域に役立つサービスではあってほしい。そのためには...。
息子を抱きしめて、心の中でつぶやいた。
「まずはチームづくりから」

（完）

＜つづく＞