第14回 何気ない行動から人間の社会性と心理を解明する取り組み(2)-援助行動研究の知見から-

2011.04.01 山口 裕幸 先生

 yamaguchi14_1.jpgのサムネール画像仕事を終えて疲れた体で帰宅する電車の中、停車したある駅から、赤ちゃんを抱いたお母さんが、自分が座っている席の前に立ったとしたら、あなたならどうするだろうか。即座に席を譲る人もいれば、居眠りをしてそのまま座り続ける人もいるだろう。もちろん、席を譲るべきだとわかっているからこその居眠りであって、居眠りをする行動に、その人の心のありようが表れるわけである。

 席を譲るべきだと思っているのであれば、素直に譲ればよさそうなものだが、自分が疲れていれば、決断はそうそう単純にはいかない。「座っていたい」というyamaguchi14.jpg願望と、「妊婦さんやお年寄りには席を譲ってあげるべきだ」という規範意識との狭間で心理的葛藤が発生するからである。そうした葛藤への対応方略として、非難の目を向けるかもしれない他者の目を避けながら、居眠りをしたり、新聞や本を広げて気づかないふりをしたりする行動がとられるのである。

 さて問題なのは、席を譲らない人は、"自己中心的"で"心ない"人、あるいは"反社会的な"人たちなのか、という点である。行動を表面的にとらえれば、そんな解釈がなされても仕方ないかもしれない。1964年にアメリカ・ニューヨークで発生したキティ・ジェノビース事件に対する社会やマス・メディアの対応はそんな解釈に基づくものだった。仕事を終えて帰宅途中だったキティを暴漢が襲い、彼女は助けを求めながら逃げ続けたが、ついに暴漢に捕まって刺し殺されてしまった。事件そのものが異常で悲惨だっただけでなく、彼女が助けを求めて叫びながら逃げ惑うようすを、周囲のマンションの窓やベランダからたくさんの住人が見ていたにもかかわらず、誰も助けに行かなかったことが、アメリカ社会に大きなショックを与えた。ニューヨークのような大都市では他者への関心が希薄になり、冷淡になるのだという説明がまことしやかになされたりした。そして、キティが逃げ惑うのを見ていながら助けに行かなかった人たちは、人間の心を失った自己中心的な人々だと言うレッテルが貼られることになった。しかし、大勢の人がいたのに全部が冷淡な人ばかりだったというのは腑に落ちないことである。

 この事件を契機に「なぜ助けないのか」という問いを持って援助行動に関する研究が活発に行われるようになった。その中で注目されたのが、援助すべき場面でも、周囲に自分以外にも多数の人々がいると、自分が助けに行かなくても他の誰かが助けに行くだろうと感じてしまう「責任性の拡散」の心理が働くことを見いだしたダーリー&ラタネの研究(1968)である。もし援助できる人間が自分以外にはいない状況であれば、多少負担の大きい援助であっても、多くの人がそれを行うことも実験で明らかにされている。

 困っている人を援助することは多くの社会で共通に見られる規範であり、小さい子どもの頃から繰り返し親や先生や大人たちから教え込まれてきている価値観である。規範に沿った行動は、周囲からの賞賛を期待できる。少なくとも、援助しないことで気まずい思いをしたり自己嫌悪に陥ったりする必要はない。それゆえ、援助しようとする動機づけは強弱の差はあっても誰もが持っていると考えられる。他方、援助には多少なりとも負担が伴う。手間や時間もかかるし、場合によっては危険も伴う。「助けたいが、それは簡単ではないぞ」という揺れ動く思いの中で、状況の持つ特性が、援助するか否かの意思決定に重大な影響を与えるのである。

 我々は、電車の中で妊婦さんを前に居眠りしている人を見ると、冷たい人だとか社会性のない人だという非難の目で見てしまいがちである。しかし、そう簡単に決めつけないで、様々な状況を比較しながら、そこで表れる行動の違いを検討してみることが大事である。そうやって、はじめて行動の背後で働いている心理メカニズムを正確に知ることができる。援助行動に関する社会心理学の研究では、状況特性をシステマティックに変化させながら、それぞれの異なる状況特性の下で観察される行動を比較して、人間心理のメカニズムを詳細に検討していく手法もとられている。他の社会行動についても同様の研究アプローチは有効である。次回はコミュニケーション行動を取り上げて、何気なく我々がとっている行動の背後で働いている心理の特性について考えてみることにしたい。

※先生のご所属は執筆当時のものです。

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