第164回 組織に心理的安全性を醸成しようとするときの心理的ハードル(1)~「もの言う」動機づけにブレーキをかける職場の権威勾配~

2024.8.5 山口 裕幸(京都橘大学 特任教授)

 「心理的安全性」という言葉は聞き慣れてきたという人も多いだろう。その概念は、簡潔に説明すると、「自分が所属する職場では、自分の意見を率直に発言・表明しても、否定的に評価されたり、人間関係に悪影響が及んだりする心配はない」という確信を皆で共有している状態を意味している。要するに誰もが率直に意見を述べられる雰囲気が職場にあること、いわば「風通しの良い」規範や文化が職場に備わっている状態といえる。

 この概念に注目が集まった当初は、色々な局面でストレスを感じることの多い職務生活の中で、「心理的安全性」という言葉が、心安らかに意欲的に仕事に取り組む温かく穏やかな職場に備わる特性というイメージで捉えられたことがあったかもしれない。

 しかし、この概念の提唱者であるエドモンドソン(2012)は、心理的安全性は穏やかで居心地の良い職場の状態を意味するのではないことを強く指摘している。むしろ、緊張感のある引き締まった雰囲気こそが心理的安全性の真骨頂だというのである。なるほど、互いに自分の意見を率直に述べることは、意見が対立したり、気まずい思いをしたり、軋轢が生じたりする引き金になるのが現実である。そんな職場は緊張感のあるものになるのが自然だろう。ただし、この緊張感は、自律的な組織変革の必要性に気づかせ、変化する環境に適切に適応して、持続可能性の高い組織づくりに挑戦する態度の基盤となる。その挑戦的な態度を育み促進するのが心理的安全性なのである。

 とはいえ、基本的に職場に意見の対立や緊張感があることは、必ずしも歓迎されないのが実情だろう。そのため、職場で率直に自分の意見を発言・表明することには、実際には一定の心理的ブレーキがかかってしまうことが多いと思われる。エドモンドソンは、発言行動(voicing)の重要性を強調するが、それは、発言行動を促進すること自体が難しく、心理的安全性の醸成にとって高いハードルになることを示唆している。無論、そのハードルを乗り越えたところに、職場の心理的安全性の実現が期待される。発言行動の促進は心理的安全性醸成の重要な課題だといえる。

 職場における発言行動を促進する取り組みを検討するとき、上述してきたような対人的葛藤の発生を恐れる心理の他にも、考慮しておくべき心理的ブレーキが存在することを織り込んでおく必要がある。それは権威勾配と呼ばれるもので、職位や権限の違いが生み出す、いわば職場の構造的特性がもたらすものである。率直に意見を述べたくても、相手が上司であったり、専門性が異なる相手であったりすると、躊躇いを感じるのが現実だろう。その理由としては、相手の感情を害し、将来的に自分に不利な人事考課などが行われるのではないかという不安を感じることがあげられる。しかしながら、この権威勾配の効果の源泉は、組織秩序の維持という側面からも考えられることに注意が必要だ。

 チームワークの観点に立てば、職場の誰かがミスやエラーを犯した場合、それに気づいた他のメンバーがそれを指摘して修正すれば、事故の発生は防ぐことができるだろうと考えられる。ところが、実際に規模の大きな総合病院の看護師の皆さんに、他のメンバーがミスやエラーを犯しているのに気づいたとき、どのように対応しているかを尋ねたところ、指摘しないことも多いことが明らかになった。また、なぜ指摘しないのか、その理由を尋ねたところ、人間関係を損ねることへの懸念とあわせて、職場の秩序を守ることを優先する心理が働くことも強く影響していることがわかった(三沢・田原・山口、2006)。

 特に、相手が自分よりも職位が高い場合やキャリアが長い(先輩の)場合、さらには専門性が異なる(例えば、医師や薬剤師等の)場合には、ミスやエラーの指摘は強く躊躇われることが明らかになった。山内ら(2001)も、同様の研究結果を報告しており、大坪ら(2003)は、こうした職位やキャリア、専門性の違いによって相手のミスやエラーの指摘を躊躇う影響のことを権威勾配の効果と呼んでいる。

 組織は、職階制と規則でメンバーの判断や行動を統制する形態をとっている。このこと自体、組織全体の統合性を維持するために必要なことなのだが、環境が大きく変動し、先行きが読めないVUCAの時代に必要となる自律的な組織変革の実践にはブレーキをかける効果をもたらしてしまう。というのも、まさに、個々のメンバーが権威勾配を配慮し、上位者に忖度することが優先されて、ミスやエラーを防止するための建設的な対応は後回しになってしまいがちだからである。

 こうした権威勾配を克服する手立てとしては、相手の感情を損なうことなく自分の考えを率直に伝えるためのアサーティブ・コミュニケーションの技法(アサーション・トレーニング法)が提起されている(沢崎・平木、2005等)。この技法は、とても理に適ったものではあるが、やはり鍵を握るのは、発言者の心構えと勇気であって、権威勾配は、その心構えや勇気に一定の抑制効果をもたらすと考えられる。

 権威勾配の克服に向けては、上位者が職場の皆の意見を受け入れ、傾聴する態度で接することが重要になってくる。近年、組織の管理者が発揮するべきリーダーシップとして、部下との対話を活性化して、さまざまな意見の衝突を、組織目標の達成という一本のスジを通して調整していく働きかけの重要性が指摘されている。トップダウンの指示・命令で部下を動かすだけの時代は過ぎ去ったのだと思っておくべきなのかもしれない。では、対話と調整に基軸を置くリーダー行動はどうあることが望ましいのか。次回、その問題について考えていくことにしたい。

【引用文献】

Edmondson, A. C.(2012). Teaming: How organizations learn, innovate, and compete in the knowledge economy. John Wiley & Sons. (野津智子・訳. (2014). チームが機能するとはどういうことか―「学習力」 と 「実行力」 を高める実践アプローチ. 英治出版.)

三沢良・山口裕幸・田原直美(2006) 安心を創出する職場環境とチームワークに関する研究 平成16・17年度科学研究費補助金(基盤研究(C)(2)課題番号16530404: 『チーム・コンピテンシーを育成・強化するマネジメント方略の研究』, 研究代表者・山口裕幸)研究成果報告書 (pp. 20-47).

大坪庸介・島田康弘・森永今日子・三沢良(2003). 医療機関における地位格差とコミュニケーションの問題: 質問紙調査による検討 実験社会心理学研究 43(1), 85-91.

山内桂子・山内隆久・山口裕幸(2001). 病院では他者の誤りを指摘できているか?-医療場面のコミュニケーションに関する考察- 日本心理学会第65回大会発表論文集 p.919.

※先生のご所属は執筆当時のものです。

関連サービス

関連記事一覧