第104回 人的資源管理に「心」の要素を考慮することの意味 - 終身雇用制廃止を巡る議論を題材に -
2019.07.03 山口 裕幸 先生
このところ、日本型経営の根幹を支えてきた終身雇用制の是非を巡る議論が活性化している。離職や転職が珍しいことではなくなり、新入社員を卒業とともに一括採用する慣行も見直しが進む中で、5月7日の経団連定例記者会見において、中西宏明会長から、終身雇用を前提に企業運営、事業活動を考えることには限界がきているという趣旨の発言があったと報道された。これに続いて、5月13日にはトヨタ自動車の豊田章男社長が、2019年度の定時総会後の記者会見で、「雇用を続ける企業などへのインセンティブがもう少し出てこないと、なかなか終身雇用を守っていくのは難しい局面に入っている」といった趣旨の発言をしたとの報道がなされ、議論はヒートアップしつつある。
終身雇用制を持続するための経営負担が大きいことは、グローバル化が進んだ1990年代以降、繰り返し指摘されてきたことではある。組織の利益確保を重視する視点に立てば、グローバル化が浸透し、多様化が進み、不透明感、不安定感がより一層増す経営環境にあっては、一度採用した人員を教育し、育成して、定年が来るまで確実に雇用し続ける安定を確保することにかかる負担は非常に大きく、それを維持していくことの難しさは看過しえない問題であろう。合理的組織経営の視点に立てば、人件費ほど経営を圧迫する重石はないという見方さえある。
しかし、それでも、トヨタ自動車をはじめ、日本の企業の多くは、終身雇用制を維持してきた。実際のところ、様々な議論を呼び起こした豊田章男社長の記者会見の内容も、よく読むと「雇用を続ける企業等へのインセンティブがもう少し出てこないと」という条件をつけたうえで、終身雇用を守っていくのは難しいと言っているのであって、根本には終身雇用制を維持していきたいという思いがあるように感じられる。筆者が思うに、豊田社長の本意は、良い側面もある制度だから維持していきたいけれど、なにせ企業の負担が大きいから、国からもう少しバックアップしてほしい、というところにあるのではないだろうか。豊田社長のみならず、終身雇用制の厳しさを認識しつつ、それでもその廃止には慎重論を唱える経営者、専門家は少なからずいる。名うての経営者や専門家が、その大変さ、厳しさを訴えながらも、終身雇用制を簡単に投げ出すことをしないのはなぜなのだろうか。
様々な議論に耳を傾けてみると、多くの人が、終身雇用制がもたらす社員の心理的効用の重要性を軽視すべきではないと考えていることがうかがわれる。失われた20年と称されるような厳しい経営環境が続いてきた中で、愚痴を言わず(あるいは言いながらかもしれないが)残業に精を出し、陰日向なく仕事をやり遂げる信頼のおける従業員の存在は、金銭には換えがたい財産であり、組織の持続可能性を支える重要な資源といえるだろう。人手不足の時代に入って、専門的な知識や技能を育成し、継承していくことの大切さを実感することもあるのかもしれない。
将来に視野を転じれば、これまで経験したことのない新規な事態に直面することが増え、多様な形で組織経営が荒波に巻き込まれることも予想される。優れた組織力で将来に向けて持続可能性を高めていくためには、予測不能な事態へも的確に対応する環境順応力を備えることや、想定外の事故や災害、失敗に直面しても、そこから粘り強く立ち直るレジリエンスを備えていくことは、是非とも必要になる。
そうした高度な組織力を構築しようとすれば、経営者から従業員への要求も高度なものにならざるをえない。経営者と従業員の関係も、社会的交換関係であり、従業員の労働に対して経営者は賃金をはじめとする報酬を与える関係にある。モチベーションを高め、組織目標の達成にコミットする態度を従業員に期待するのであれば、経営の側もそれに見合う厚い待遇を与えることが必要になると考えるべきである。一方的に要求され、搾取される関係は、どちらにとっても不都合であるから、双方が互いの存在の価値を認め、尊重しあうときに、その関係は充実したものとなっていく。終身雇用制は、従業員が優先的に求めている安定した将来設計を可能にすることで、従業員のモチベーションとコミットメントを引き出すことに成功してきたといえるだろう。
いかにも日本らしい経営手法であった終身雇用制は制度疲労に陥っている側面があるのかもしれない。それを根拠にして、非合理的経営からの「脱却」という美名で葬り去ることは可能だろう。しかし、根幹にある組織で働く人々とその心を大切にする視点まで葬り去ることになったのでは、取り返しのつかない組織力減衰のループに嵌まり込むことになりかねない。世界に通用する組織競争力を開発していくためには、他にはない独特の個性を育むことも重要な視点である。終身雇用制の是非をめぐる議論の活性化は、日本ならではの新しい人的資源管理のあり方に向けたアプローチの始まりであることを期待したい。
※先生のご所属は執筆当時のものです。
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