第118回 大切なことだとわかっていても「自分には必要ない」と思ってしまうのはなぜか~接触確認アプリ(COCOA)の普及が進まない理由を社会心理学的視点で考える(2)~

2020.09.30 山口 裕幸 先生

 厚生労働省の肝いりで開発され、無料で使用できる「新型コロナウイルス接触確認アプリCOCOA」の社会的普及がなかなか進まない理由について心理学的な観点から考えている。COCOAの活用は、感染拡大の防止には極めて有効であることが科学的に説明されている。多くの人がそのことを知っており、大切な取り組みだとわかってはいるのだが、街の人々の声を聞くと「めんどうくさい」、「自分には必要ない」、「なんとなくいらない気がする」といったものが多かった。実際、厚生労働省のホームページによれば9月25日現在のインストール数は約1752万件で、前回のコラムを書いていた8月中旬の頃の1400万弱の件数からさほど増えていない。

 「めんどうくさい」という理由づけは、「それをやってどんなメリットがあるのかよくわからない」という認識を反映していると前回は論じた。10万円の給付金の手続きには多くの人が積極的に対応したように、メリットがはっきりしていれば手続きの「めんどうさ」はさほど問題ではないのである。

 ここで大切なのは、どのくらいメリットがあるかの査定は主観的に決まる点である。人間は、利益よりも損失に敏感で、それをできるだけ避けようとするバイアスが無自覚的のうちに働く認知システムを持っている。手続きを行うことに伴う時間や労力等の損失を実際以上に大きく感じてしまうバイアスの影響を受ける中で、損失よりも得られる利益の方が明瞭に大きいと認知できないと、手続きをしようとする動機づけも高まらないのである。それほどメリットがないと感じることは、その行動を起こすことを「めんどうくさい」と感じることにつながる。そして、そんなめんどうくさいことは、「自分には必要ない」、「なんとなくいらない」という感覚につながりやすい。

 ただ、ここで疑問を覚えるのは、ほとんどの人は自分が感染してしまえば、健康や経済をはじめとして様々な側面で大きな損失を被ることを知っているのに、なぜその損失のリスクはそれほど強く感じないのか、という点である。上述した認知バイアスの性質を考えれば、損失のリスクには敏感に反応して、なんとかそれを避けようとする行動が起こりそうなものである。自分が感染してしまった場合のリスクに敏感なのであれば、COCOAを活用しようとする人はもっと増えていてもよいはずである。

 このリスクの見積りに関わる疑問に答えようとすれば、真っ先に考えられるのが「正常性バイアス」と名づけられている認知バイアスの影響である。我々の認知プロセスには、実に多種多様なバイアスが働いている。「正常性バイアス」とは、自分にとって都合の悪い情報は無視したり,過小評価したりしてしまう認知傾向を意味している。

 例えば、地震や洪水等の自然災害の危険が迫っていることを伝える情報を受け取っても、「いやいや、自分は大丈夫だから」と思い込んでしまう心理状態に我々は陥りやすい。自分が危険にさらされる可能性があるという都合の悪い情報は軽視して、確たる根拠もないのに、勝手に安心して自分は大丈夫と思い込んでしまう認知バイアスである。実のところ、リスクは敏感に感じても、その情報を過小評価する(すなわち歪める)ことで、心を平静に保とうとするメカニズムが、我々の認知プロセスに働いていると考えて良いだろう。この認知バイアスは強力で、時には「他の人たちはともかく、自分だけは助かる、大丈夫だ」という盲目的な思い込みにつながることさえある。

 COCOAのダウンロードやインストールに関しては、無自覚のうちに行っている損得勘定で、損より得が明らかに大きいとは感じられないうえに、正常性バイアスが働くことによって「まずまず自分は大丈夫だ。心配ない」という根拠のない思い込みが支えとなって、行動を起こす動機づけを抑制してしまっていると言えそうだ。

 では、どうすれば良いのか。認知バイアスは無自覚のうちに、しかもかなり強力に、我々の認知プロセスに影響を及ぼしている。簡単そうなのは、感染の恐怖をより強烈に伝える、すなわち、リスクを強調した情報伝達を試みることであるが、この方法は逆効果につながることも多い。なぜなら、リスクを強調されることで、脅された気持ちになると、心理的リアクタンス(反発心)が誘発され、働きかけられた方向と異なる反発行動を引き起こすことが多いからである。日常の様々な局面でよく使われる脅しに頼った説得は、さほど効果的な方法とは言えないだろう。

 今回紹介した「正常性バイアス」や「心理的リアクタンス」にしても、その他の多種多様な認知バイアスにしても、気づかないうちに我々の認知活動に強力に影響しているものである。その影響を外部から圧力をかけて抑制したりコントロールしたりすることは非常に難しい。あるバイアスを抑制しようとすると、他のバイアスが働き始めたりするからである。むしろ、人間の意思決定がどのようなバイアスに影響を受けるのかを解明して、そのバイアスの影響をうまく利用することを考えた方が良いだろう。本人が知らず知らずのうちに周囲から期待される判断や行動を行うようにするには、どのような刺激を与えると狙い通りにいくのかを検討するアプローチである。次回は、そのようなアプローチについて検討していくことにしたい。

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