第152回 心理の世界で働く「慣性の法則」について考える ~変わ「ら」ないのか、変わ「れ」ないのか~

2023.8.3 山口 裕幸(九州大学 教授)

 新型コロナウイルスのパンデミック発生から、海外で開催される学会への参加は長らく控えてきたが、先日、イギリスで開催されたヨーロッパ心理学会議に久々に出席してきた。そこでは多種多様なテーマの研究が発表されており、やはり新型コロナウイルス禍における人々の心理的問題を取り上げたものが多かった。ホッとしたことに、会場に集まる研究者達の様子や雰囲気は依然と同じで、これといった変化は感じられなかった。

 他方、わずか1週間ほどの旅行であったにもかかわらず、以前に比べてイギリス社会が様々な側面で変わってきていることに気づかされた。ただし、私が気づいた変化は、事前に様々なメディアを通して情報を得ていたものであった。したがって、気づいたというよりも、実感したといった方が良いのかもしれない。そして、イギリス渡航中の自分自身のふとした瞬間の判断や行動を振り返ってみると、旧態依然とした変化のない思考パターンから抜け出せていないことに少々愕然とさせられた。

 私の中で変化していなかった思考パターンは色々とあるのだが、中でも強く感じさせられたことの代表は現金への認識である。出発前の準備で「ある程度は現金を英国ポンドに換金して持っていった方が無難だろう」と考えて、空港で換金した。なのに、イギリス滞在中、現金が必要な場面には"一度として"遭遇することはなかった。逆に、現金で払おうとしたら拒否されて、クレジットカードやスマートフォンを利用したキャッシュレス決済を求められることが相次いだ。むろん、コンビニエンス・ショップなどでは現金でも買い物をすることはできたが、お釣りを支払う手間がかかるせいか、あまり歓迎されている感じはしなかった。

 日本でもキャッシュレス決済が普及浸透しており、イギリスでも同じだろうとは思っていた。しかし、まさか現金が使いづらいとは思ってもいなかった。私の心の中に「高額な買い物はともかく、少額の買い物や飲食は現金が必要なこともあるだろう」という固定観念があって、最近のイギリス社会における様々な生活の変化の様子を伝える情報を目にしていたにもかかわらず、旧態依然とした固定観念の方にこだわってしまったために、自分の判断が古くさいことをしっかり思い知らされることになった。

 普段の生活の中で知らず知らずのうちに身につけている認知の枠組みは、長期にわたって保持されることで、心の奥底に堆積し、次第に自分にとってのいわば「常識」となり、個人の判断や行動の基盤となってくる。「なぜそう考えるのか」と問われても、「そんなものだと思ってきた」とか「なんとなく」としか答えられないような場面をイメージしてもらうと良いかもしれない。一度根づいた認知の枠組みは、無自覚のうちに同じ判断を続ける心理的「慣性の法則」の基盤になるといえそうだ。

 考えてみると、物理の世界と同じように、心理の世界にも「慣性の法則」が働いているのかもしれないと感じることは多々ある。たとえば、このコラムの120回126回でも取り上げた「正常性バイアス(normalcy bias)」は、その代表例といえるだろう。これは、自然災害や火事など、何らかの被害が予想される状況におかれているのに、それを正常な日常生活の延長上の出来事として捉えてしまって、「自分は大丈夫」とか「まだ大丈夫」、あるいは「前例がない」などと、自分にとって都合の悪い情報を無視したり過小評価したりしてしまう認知バイアスである。危険が迫っているのに、なぜ今もこれからも今までの日常の延長線上にあると思い込み、勝手に「自分(だけ)は大丈夫」と信じるのか、にわかには理解しがたいところがあるが、防災活動・減災活動で避難誘導に従事する方々にとっては、なかなか手強い認知バイアスとなっている。

 この他にも、「係留と調整(anchoring and adjustment)のヒューリスティック」と呼ばれる独特の認知傾向も、心理的世界における「慣性の法則」を感じさせるものである。これは、何らかの判断に際して、初期段階で事前に保持していた情報を手がかりに推定し、その後得た情報があっても、それらをほとんど利用しないで、初期段階の推定を維持(固執)してしまう認知傾向である。カーネマン(2012)は、ヒューリスティクスは、確率の評価や価値の見積もりといった複雑な作業を単純な判断作業に置き換えるもので、多くの場合にきわめて有用であるが、ときに深刻な系統的エラーにつながることがあると指摘している。

 キャッシュレスの時代が到来していることは知っているのに、「それでもいくらかは現金を持っていかないと困るかもしれない」と考えた私は、旧態依然たる自分の判断を変えなかったわけである。ただ、心理の世界にも慣性の法則が働いているとすれば、判断を変えなかったというよりも、変えられなかったと表現した方が適当かもしれない。

 VUCAの時代にあって、変化を求められることが多く、意識を変えれば判断や行動も変わると思いたいところである。しかし、人間の心理の世界には、非合理的とも思えるメカニズムがいくつか働いており、いくら筋の通った論理を持って説得しても、すんなりとは変えることができない認識や価値観もあると考えておいた方が良い。

 とはいえ、組織や社会の持続可能性を高めるためには、適切に変化を作り出していくことが大切である。なかなか変われない傾向を持つ認識や価値観に変化を作り出していくにはどんな取り組みが有効なのだろうか。次回、この問題について考えていくことにしたい。

※先生のご所属は執筆当時のものです。

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