第47回 人間行動の直観的判断の不可解さと面白さについて(3)-「確証バイアス」の影響-

2014.06.06 山口 裕幸 先生

 またまた野球の話しから始めて恐縮だが、アメリカメジャーリーグに挑戦している日本人プレーヤーの活躍ぶりを評価する人々の話しを聞いていると、なかなか面白いことに気がつく。前回紹介したような、結果を見て評価を決める「あと知恵バイアス」が働いたコメントも多いが、もうひとつ気がつくのは「やはり自分が思っていたとおり、彼は落ち着いたマウンドさばきを見せている」とか「自分の目に狂いはなかった。やはり彼のコントロールの良さはメジャーリーグでも通用する」とか言ったたぐいのコメントが少なからず聞かれることである。こうしたコメントは、もともと応援していたプレーヤーが活躍したときに良く聞かれるところに特徴がある。こうしたコメントの背後には、自分が信じていたことを、確証しようとする認知的バイアスが無自覚のうちに働いていることが多い。

 人間の幸福感を研究するポジティブ心理学の権威として著名なハーバード大学教授のギルバート(D. Gilbert)によれば、「ある言明(意見表明)の理解は、まずそれを信じようとするところから始まる」という。話しを聞くときは、我々は、ひとまずそれを信じようとする認知メカニズムを持っているというのである。

 「白い魚がキャンディーを食べている」という文章を読んでみてほしい(この文章はギルバートが実際に使用した文章の和訳である)。どうだろうか。私は、漠然とではあるが、白い魚が丸いキャンディーをほおばっているような漫画的なイメージを思い浮かべてしまった。イメージは人それぞれであるにしても、こうした連想は私だけでなく、ほとんどの人がやってしまうことである。無意味な文章に意味を持たせよう(見いだそう)として、言葉から連想される記憶を自動的に思い起こして、白い魚とキャンディーを結びつけようとしたからイメージできたことである。

 提示された言明をひとまず信じようとしているからこそ、こうした連想記憶が自動的に発動されるのである。もし、最初に信じるか、信じないかを判断する作業を先にやるのであれば、つまりは慎重に注意を払って言明を理解しようとするのであれば、「魚がキャンディーを食べるって変だよな。現実にはあり得ないだろう」という判断になり、この言明を信じないという結論になるだろう。

 言明を信じないためには、慎重に注意をこらして情報を処理する認知(カーネマンの言うところのシステム2)が働く必要がある。しかし、我々の情報処理は特別なときを除いて平常的には直感的で自動的な認知(システム1)に依存している。そのシステム1は「信じたがり屋」なのである。

 この信じたがり屋のシステム1は、連想記憶を自動的に発動させ、自分が信じていることを確証する情報を見つける活動を活性化させる影響をもたらす。例えば、「A投手はメジャーリーグでも活躍するはずだ」と思っている人は、「A投手のピッチングって素晴らしいの?」と尋ねられると、過去の記憶から様々に具体的な例を引き出すことができる。「優勝を決めたあの日の最後の一球のすごさなんて、今でも興奮するよ」といった調子である。逆に「A投手のピッチングってそれほど良くないの?」と尋ねられても、A投手が不調だった記憶を思い出すのは簡単ではない。

 こうした自動的に働いているシステム1の信じたがりの性質は、これまた自動的に発動する連想記憶と組み合わさって、およそ起こりそうもないことでも、それが起こるという言明に出会ったとき、ひとまず信じてしまう心理状態を作り上げてしまう。そこに確証バイアスが働くとき、起こりそうもないことでも、起こりうる可能性を過剰に高く認知してしまう事態につながりがちである。マヤ文明で用いられていた長期暦が、2012年12月21日から23日の頃に区切りを迎えることに端を発した「2012年地球滅亡説」が世界中で多くの注目を集めた事例は記憶に新しいものだろう。俗信や迷信と呼ばれる言説が、世界中に見られ、今でも時々流布されることがあるのも、こうした一連の無自覚的な認知活動が一役買っている可能性が高いと考えられる。

 我々はたやすく自己の記憶(経験や学習したこと)に過剰に頼った判断を、しかも自信を持って行ってしまう。偏った情報にばかり接していると、その判断の歪みは深刻な結果に結びつかないとも限らない。できるだけ独りよがりな偏った判断に陥らないようにするには、何事につけ疑問を感じることがないか感じ取る感受性と、慎重に考えるクセを身につけることが大事になってくる。

※先生のご所属は執筆当時のものです。

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