第105回 人的資源管理に「心」の要素を考慮することの意味(2) -「やりがい搾取」問題をめぐって-

2019.07.31 山口 裕幸 先生

 組織の人的資源管理を実践する際に、そこで働く人々の「心」の要素を考慮することの意味について考えている。前回は、終身雇用制度の存続をめぐる議論を取り上げた。今回は、「やりがい」に注目してみたい。

 雇用され、働く側の人々に対して、経営者あるいは管理者の側が、「やりがい」のある仕事に就くことができていることを強調し、それに伴う心身の過労状態や給与の不十分さを正当化してしまう「やりがい搾取」と名付けられた現象の発生が指摘されている。教育社会学者の本田由紀氏が2007年に発表した論文で取り上げたことで注目を集め、次第にその認識が社会に浸透してきた現象である。

 まず、やりがいとは何かを社会心理学的視点から把握しておこう。社会的交換理論に基づけば、我々が働くときに、その心の中では、その仕事を行うために自分が投入することになる資源(労力や時間、専門的技能や知識、心身の緊張・ストレス等)を評価している。これらは総合的に「損失(cost)」として認知される。それと同時に、その仕事を行うことで獲得できる「報酬(reward)」も見積もられている。それは給与や職位、社会的評価や周囲からの賞賛、働く仲間との友情や信頼を得ることなど、多種多様な資源が対象になる。

 このようすは、図に示すように、心の中で揺れ動く天秤を連想させる。左側の損失と右側の報酬とのバランスがとれていれば、やりがいは確保されているといえるだろう。しかし、ここで大切なのは、損失にしろ、報酬にしろ、そこで見積もられる資源は、物理的なものだけでなく、心理的なものも多様に存在するという点である。給料や職位等には多少の不満があっても、他にも報酬に見積もることができる要素は多様にあって、トータルでは損失とのバランスがとれていればなんとか心穏やかに働くことができる。

 もちろん、時間にしても労力にしても注ぎ込める限界はあるし、賃金や評価、職位にしても最低限得たい水準のものがある。「やりがい搾取」は、経営者・管理者の側が、獲得できる心理的な報酬を過大に強調して働く人々に認識させ、賃金が低すぎる問題や、長時間労働、年休がとれない等の問題を相対的に小さく見せることで成り立っている。

 確かにボランティアや教育、福祉の仕事は、社会への貢献、困っている人々の支援という観点から、経営者・管理者の側としては、仕事のやりがいを強調しやすい特性がある。ピョンチャン・オリンピックの準備過程で、深夜に及ぶ仕事を済ませたのち、極寒の野外で長時間にわたって宿泊所までの帰りのバスを待たなければならないことに怒りを募らせて、多くのボランティアの人々がリハーサルの会場に出向くことをボイコットしたこともあった。国のため、社会のため、困難に直面している人々の支援のためという理由づけができることは、時として、「やりがい搾取」の基盤となってしまうことがある。

 また、「自分が好きで選んだ仕事だから」という理由も、「やりがい搾取」を引き起こす起因になりやすい。好きな仕事、やりたい仕事を通して、なりたい自分を実現していこうとする「自己実現」をめざす動機づけは、「自分の夢を実現するために、無理をしてでもがんばらなければ」、「苦しくても弱音を吐いてはいけない」という気持ちにつながりやすい。将来の自分のあるべき姿を思い描き、自己実現を目指すような、いわゆるまじめな人ほど「やりがい搾取」の被害を受けやすいことを指摘する声もある。

 経営者・管理者の側に立てば、それなりの言い分があるかもしれない。人件費が経営を圧迫している苦しみはいずれの組織にもあるものだろう。しかし、働く人々一人ひとりが働くことで生まれる価値を認識し、それぞれの存在に敬意をはらうことは、組織の人的資源管理を担う人に備わるべき最低限の基本的人間性である。目の前の保身的な目標の達成にばかり目を奪われてしまうことのないように、人を生かし、育み、成長を期待する視点を大切にしたい。

<引用文献>
本田由紀. (2007). 自己実現という罠<やりがい>の搾取-拡大する新たな「働きすぎ」(特集 労働破壊--再生への道を求めて).?『世界』, (762), 109-119.

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