第148回 「日本的」な社会・集合現象について社会心理学的視点から考える(7) 〜自己卑下的に発言し、振る舞うことの影響〜

2023.3.31 山口 裕幸(九州大学 教授)

 今回は「謙譲の美徳」がもたらす影響について考えてみたい。学業でもスポーツでも仕事でも、好成績を収めて周囲の人々から褒められることがある。そのとき、素直に「これくらいはできると思っていました」とか「よく頑張ったので、良い成績をあげることができました」と答えたのでは、日本社会では十分に高い評価を得ることは難しいときがある。むしろ、「自分は非力で自信もなかったのですが、皆さんのおかげでうまくいきました」と謙遜した対応をすることの方が好まれ、周囲から高く評価される場合が多い。

 謙譲語は、もともと、相手への敬意を表すために、自分のことをわざと低めて表現する言葉である。自分の立ち位置を低めることで、相対的に相手を上位に置くことができる謙譲の対応は効果的である。謙譲語の使用は、常に相手への敬意を忘れない心がけを表すものとしてとらえられてきた。「謙譲の美徳」は、万事に控えめな態度を奨励する社会的な規範を保持する基盤だと言えるだろう。

 日本国内だけならばそれで良い。しかし、世界を見渡したときにはどうだろうか。筆者自身の経験談で恐縮だが、「あなたは謙遜が過ぎて、嫌になる」と南カリフォルニア大学でお世話になったスーザン・コーエン先生に忠告されたことがある。それは、出発前に準備していた自己研究の成果をまとめたレポートを先生に読んでもらって、今後の研究計画について助言をもらうやりとりの中でのことだった。

 筆者は自身の研究の結果とその価値については、それなりに自信を持っていた。先生も、打ち合わせの始めのところで、「新たな視点をもたらしているし、十分に価値のある研究だ」と言ってくれた。しかし、筆者は自信をあからさまに示すのは不躾だと思って、先生とのやりとりの間、盛んに「僕の研究成果は些細なものです」と繰り返していた。筆者の謙遜に対して、先生は、「私が評価していることを説明したのに、なぜそれを受け入れないのか?」と感じて、忠告に至ったとのことだった。

 謙遜が「過ぎて」しまったのが、筆者のみであれば、ひとりの問題である。しかし、日本人であれば、無自覚のうちにお辞儀をしているのと同じように、ついつい謙譲の精神を発揮してしまうことも多いと思われる。万事において控えめで、ついつい自己卑下的に発言し、振る舞ってしまうことは、決して良いことばかりではないことに注意が必要だ。

 世界では、控えめどころか、自己の能力や業績をできるだけ優良なものに見せようとする場合も多い。実際よりも誇大に他者に示すことさえ許容されるところもあるようだ。筆者が教員になりたての頃、海外からの留学生受け入れ審査をしたことがあった。前もって外務省宛に提出されていた日本語能力の「自己評価・・・・・・」がExcellent(非常に優秀)となっていたので、日本語混じりのコミュニケーションも可能だろうと思っていたところ、「こんにちは」と「ありがとう」以外はほとんど何も日本語は話せない学生がやってきた。驚いて周囲の先生に相談したところ、「それって『外国人留学生あるある』のひとつだよ」と言われた。自己評価を求められたら、自分の能力を優れていると回答するのが、多くの国々では普通なのだと言われた。それは、無難なところでModerate(普通)と回答する傾向がある日本人とは大きく異なる。しかし、むしろ日本の方が標準から外れていると考えるべきなのだろう。

 ここで気になるのが、日本国内であれば美徳として高く評価され、規範となっている謙譲の態度は、自信はなくても思い切って新しいことに挑戦したり、創造的な革新的なことに取り組んだりする態度とは正反対のものだということだ。「やってみよう!やればなんとかできるさ」という自己効力感、いわば「根拠のない自信」は、旧来の社会や組織のあり方を変革していくときの原動力となる。誰もが一定の自己効力感は持っているとしても、謙譲の精神は、天衣無縫な言動には否定的な反応を示し、創造性や挑戦心にブレーキをかけ、保守的傾向を助長してしまうことが考えられる。

 筆者も謙譲の精神は極めて美しいと思う。しかし、もしかすると、誰もが無自覚のうちに万事控えめにものごとに取り組んでしまっているのではないだろうか。あるいは、自己主張すべきところで、謙遜が過ぎる対応をしてしまっているのではないだろうか。

 「失われた30年」と称される停滞に苦しむ日本にとって、人々が思いっきり挑戦し、新しいことに取り組む行動を推奨し、後押しすることが一層大事になってきている。謙遜や自己卑下的言動を選択させる社会規範に拘泥することなく、また、発言・行動に対する自己責任の重さを強調するだけでなく、まずは自由闊達な発言に耳を傾け、挑戦的な行動を見守ることが大事なことだろう。

 この原稿を書いている期間中、野球の世界選手権であるWBCで日本の選手達が躍動している。野球のみならず、様々なスポーツや芸術の世界に携わる人々が、挑戦することの大切さを深く理解し、その価値を受け入れて前進しているのだろう。それができているからこそ、かつては世界の後塵を拝していたサッカーやラグビーをはじめとして、多くの分野で日本人、日本チームが活躍できるようになっているのだと思われる。日本中が後に続きたいものだ。

※先生のご所属は執筆当時のものです。

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