第57回 会議の社会心理学(6)-「裸の王様」現象による決定の歪み-

2015.04.14 山口 裕幸 先生

 前回、話し合いの手順を操作することで、決定の行方を特定の方向に導くことも可能であることを紹介した。話し合いを行えば、民意を反映した結論を導けるという期待は、必ずしも叶うとは限らないことには注意が必要だ。今回、さらに、手順の操作以外にも、民意とは異なる決定がなされてしまう場合があることについて論じていこう。まずはひとつの事例を紹介したい。

 私事で恐縮だが、私の母は、太平洋戦争の末期、学徒動員で長崎県大村市近郊の軍需工場で働いていたそうである。敗戦が決まったとき、一緒に働いてきた友人たちと話し合って、いざというときのために大切に大切に保管してきたパイナップルの缶詰めを開けて、それをみんなで分け合って食べてから、互いに工具の刃物で刺し違えて自決しようと決めたそうである。幸いにも、刺し違えようと構えたところまではいったものの、苦楽をともにしてきた友人を刺すことは、誰もがどうしてもできなかったそうである。

 それから30年ほど経って、軍需工場で働いた友人たちとの再会の席で、自決しようと話し合って決めたときの気持ちを吐露しあったそうである。「もちろん本当は死にたくなかったし、怖くて仕方がなかった。でも、他の人たちはみんな覚悟を決めているのだろうと思って、自決したくないとか怖いと言い出すのは恥ずかしいし、皆の覚悟に対して申し訳ないという気持ちだった。だからみんなで自決することに賛成した」と、誰もが異口同音に言っていたそうである。

 つまり、誰も死にたくないのに、話し合うことによって、その誰もが望んでいない集団自決の決定がなされてしまう皮肉な現象が起こったことを、この事例は示している。もちろん、母たちが行った話し合いは真剣なものであり、当時としてはあるべき決定だったのだろうと思われ、「馬鹿げたことをして」とは、とても言えるものではない。話し合いの決定が悲壮なものであるだけに、ひとり一人の本当の気持ちや考えを率直に提示できないまま話し合いが進むことの深刻さが痛感されるのである。

 紹介した事例のようにメンバーの誰もが本音を言い出せないまま、誰も望んでいない決定がなされてしまう現象は、それほど珍しいものではない。周囲の多数の人々に支配的な考え方や意見を推察すること、俗な言い方をすれば「空気」を読むことは、誰もがやっていることである。そして、自分がのけ者にされたり、不利になったりしてしまう危険があるのなら、自分の本当の考えを封じ込めて、周囲の人々が持っていると推測される考えにあわせた行動を選択することは、誰もがやりがちなことである。そして、話し合いをしているメンバー全員が、自分が本当に持っている意見を言わないまま、推定される多数意見に従ってしまうと、紹介したような事例の現象につながるのである。

 こうした現象は、多数者や権力者の命令や圧力に屈した結果、自分の本当の気持ちを封じ込めて、命令や圧力に従う同調行動と類似している。ただ、心理プロセスとして少し違うのは、自分が持っている考え方とは異なる意見を聞いたとき、「自分はそうは考えないけど、世の中には色々な考え方があるものだし、たくさんの人がそう考えるのなら、それはそれで仕方ないことだ」と考えて、あえて他者の考え方に異論を述べないことを選択するという点である。

 このような行動選択は、「多元的無知(pluralistic ignorance)」と呼ばれることが多い。色んな意見があってもいいという考え方が根底にあって、あえて異論を述べるという選択をとらずに状況を見過ごすという特性と、原語のニュアンスからすれば、「多元主義者的な無視」と表現してもいいかもしれない。アンデルセンの童話「裸の王様」に登場する市民のように、「王様の新しい衣装は、自分には見えないけど、見えないと言うと自分が馬鹿だっていうことになるし、他の人たちも素晴らしい衣装だと言っているから、ここは自分も同じように言っておこう」という心理と共通するところから、「裸の王様」現象と言われることもある。

 大規模に集合的な多元的無知が発生すると、少数者は沈黙せざるをえなくなり、「沈黙の螺旋(Spiral of Silence; ドイツ語ではTheorie der Schweigespirale)」と呼ばれる現象につながる。第二次世界大戦中に、戦争に異論を唱えようものなら、非国民と呼ばれ、言いたいことが言えなくなったのも、もとをただせば、一人ひとりの些細な心理が生み出したものといえるだろう。

 周囲の人々の考えに耳を傾けることは悪いことではない。しかし、互いが自分の本当の意見を言わないまま、規範に沿った意見や何となく雰囲気的に支配的な意見に同調してしまうと、誰も望んでいない決定をみんなでしてしまうことになる。話し合いによって民意を反映した決定を行うためには、参加者が安易に「多元的無知」を決め込むことがないように、誰もが率直に意見を述べることができる状況づくりが大事になってくる。

 さて、我々が頻繁に話し合いを行う理由を追いながら、会議にまつわる社会心理学的なトピックに焦点を当ててきたが、話し合いを行う理由として、もうひとつ重要なものが残されている。それは、皆で情報を共有するためという理由である。各自が持っている情報を、話し合いの場で出し合うことで、互いに他者の情報を取り入れることができて、結果的に、全員で情報を共有することができるという期待があって、話し合いが行われることも多い。会社や役所の会議のほとんどは、これに類するものであろう。話し合えば、メンバーが各自固有に持っている情報は、全員で共有することにつながるのか。その問題について、次回は検討していくことにしたい。

※先生のご所属は執筆当時のものです。

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