第40回 「なんとなく」な意思決定の背後にある心理(3)-交渉場面を題材に①-

2013.11.13 山口 裕幸 先生

 前回までは、行動経済学の分野で注目されている人間の不合理な意思決定の代表例を紹介してきた。今回はもう少し視点を変えて、交渉場面における人間の不合理な意思決定について紹介しよう。紛争解決や互いにとって有益な合意形成を実現するための方途を求めて、多くの社会心理学者が交渉場面の人間心理と行動の特徴を検討し、明らかにしてきている。

 ひとくちに交渉といっても様々な形態があるが、今回は、商取引の場面に焦点を絞って考えていくことにしよう。一方が買い手で、もう一方は売り手となる場面である。こんな場面で人間が基本的に陥りやすいのが「固定資源知覚(fixed-pie assumption)」と呼ばれる心理である。交渉行動研究の第一人者であるバザーマン(Bazerman, 1983)が指摘したもので、買い手と売り手では、互いの利害は完全に対立していると、はなから思い込むというのである。

 この心理がどのくらい強力なものか、トンプソン&へイスティー(Thompson & Hastie, 1990)は実験を行って確かめている。彼女たちは、新車の売買交渉を行う場面を設定し、90組のペアの実験参加者に対して、一方に買い手の役割を、もう一方に売り手の役割をとるように教示した。そして交渉の争点となる4つの要素 (分割払いの利子、負担する税金、保証期間、納車時期)と、それぞれの争点において合意した場合に得られる利益得点とを示した一覧表(表1、表2)を渡して、「この表を参照しながら自由に交渉して、できるだけ自分の利益得点が大きくなるようにしてください」と伝えた。ただし、この一覧表には、互いに自分の利益得点は記載されているが、相手の利益は空白で記載されていなかった。そして、「相手の利益得点は、あなたが推測して(  )の中に書き込んで下さい」と依頼したのである。

 少々複雑だが、この2つの表を見比べて欲しい。売り手の立場で表1を見ると「分割払いの利子」に関する得点が他の3つの争点に比べて大きいことに気づくだろう。そして、相手の利益を推測するときには、「やはり相手にとっても分割払いの利子は一番大事な争点であろう」と推測してしまうのが人情だ。この推測こそが「固定資源知覚」の落とし穴への第一歩なのである。自分にとって重要な争点は相手にとっても大事な争点であると思い込み、そこではなるべく譲歩せずに交渉を進めようと考えてしまう。相手の利益は自分の損失であるという思い込みの連鎖が生じるのだ。しかし、表2の買い手の利益を見てみると、こちらにとっては保証期間に関する得点が他の争点よりも大きくなっている。したがって、買い手が思うのは保証期間が互いにとって一番大事な争点だということになる。

 どれが重要な争点なのかについて、相手の話を良く聞き、自分の考えをよく説明すれば、この実験の場合、売り手は分割払いの利子で利益をとり、買い手は保証期間で利益をとり、税金と納車時期は譲歩しあって中間をとれば、互いにとって満足のいく「統合的合意(integrative agreement)」に到達することが可能である。しかし、実験の結果は、買い手、売り手ともに自分の重視する争点について、自分の利益得点を正反対に並べた得点を書き込むことが多かった。このことは「固定資源知覚」が生じていたことを意味する。

 争点が1つしかない場合の交渉は確かに難しい。しかし、我々を取り巻く現実の問題は、争点は複数あって、それぞれの立場で重要な争点が異なる場合も多い。互いに率直に話しをして、また相手の話に耳を傾けることができれば、互いにとって満足できる解決策(solution)に至ることができる場合は少なくない。しかしながら、現実には、1つの対立がきっかけとなって、全面的な対立へとエスカレートしてしまい、衝突が激しくなるばかりで、解決への道のりが遠くなる事案は枚挙にいとまがない。

 「固定資源知覚」の背景では、人間が自己の意見や判断について、他者との類似性を過大視する「誤った合意(false consensus)」効果が働いているとトンプソンたちは指摘している。また、競争を奨励する社会では、「相手の損失は自分の利益である」という規範が存在し、交渉に臨む人々を「固定資源知覚」へと誘導することがあるとの指摘も行っている。いずれにしても、この「固定資源知覚」は、知らず知らずのうちに、解決への扉を自分たちで閉ざしてしまうような不合理な判断をしてしまうことにつながっている。

 どうすれば、この心理的罠の障害を取り除くことができるか気になるところであるが、交渉場面で行われる不合理な意思決定については、他にも重要なものがある。次回は、引き続きこのトピックについて紹介し、その後、問題克服の方策について考えていくことにしたい。

<引用文献>
Bazerman, M. H. (1983). Negotiator judgment: A critical look at the rationality assumption. American Behavioral Scientist, 27, 211-228.
Thompson, L. L., & Hastie, R. (1990). Social perception in negotiation. Organizational Behavior and Human Decision Processes, 47, 98-123.

※先生のご所属は執筆当時のものです。

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