第96回 「理想のリーダー像」が人によって異なることが生み出す上司と部下のすれ違い-社会心理学的視点で素朴な疑問に向き合う⑦-

2018.07.19 山口 裕幸 先生

 前回、上司と部下のすれ違いの原因を、コミュニケーションの取り方に注目して考えてみた。今回は、個人の心理学的特性に着眼点を移して、上司-部下間のすれ違いが起こりやすい原因をさらに考えてみることにしたい。

 サッカー日本代表のワールドカップでの活躍に心躍らせた人は多かっただろう。様々な話題を我々に提供して、ワクワクしたり奮い立ったり、また、勝ち抜くための覚悟の戦術を見せてくれたりと、生活に様々な観点から彩りを与えてくれたことに深く感謝したい。

 急遽、新しい監督を任せられた西野朗氏は、優れた舵取りでチームを決勝トーナメント進出へと導き、今はホッとしておられることだろう。とはいえ、監督交代から決勝トーナメント敗退までの3ヶ月足らずの間に、監督としての評価、そのリーダーシップへの評価が、ジェットコースターのように激しく上がり下がりしたのには、さぞかし困惑しただろうなと、心中察してあまりあるところがある。

 我々の日常生活を振り返っても、社会や組織のリーダーとして活躍する人物への評価は、ときに大きく変化することを経験し、見聞する。世界各国の政府首脳や各政党の党首への評価をはじめとして、プロ・スポーツの監督やコーチ、チーム・キャプテン、さらには企業や官公庁・省庁の管理職等への評価というものは、「リーダーとして機能しているか」が問われることが多い。では、評価する側の人々は、リーダーを務める人への評価を、いかなる基準に基づいて行っているのだろうか。

 リーダーシップに関しては、様々な評価尺度や測定尺度が存在する。しかし、我々はいちいちそうした尺度を用いて客観的にリーダーを評価しているわけではない。むしろ、日常生活においては、自分なりの評価のモノサシを主観的に作り上げていて、そのモノサシを用いて、リーダーを評価することが多い。このモノサシは、言い換えると、自分の考える理想のリーダー像を示すものであるといえる。理想のリーダーが示すリーダーシップこそが、正しいリーダーシップであると考え、心の中にリーダーシップ・プロトタイプ(優れたリーダーシップの鋳型)を構築していくのである。

 理想のリーダー像も、リーダーシップ・プロトタイプも、自己の経験に基づいて主観的に作り上げられるものである。すなわち、自分の経験の中で、優れた結果をもたらしたと評価できるリーダーがとった行動や判断、その人柄等を土台にして、自分なりの理想のリーダー像とリーダーシップ・プロトタイプを作り上げるのである。これらは、リーダーの立場にある人を評価するときの枠組みとなり、モノサシとなっていく。したがって、人によってリーダー評価基準には違いがあることは不思議なことではなく、むしろ当然のことだといえる。

 認識しておくべきことは、部下には部下の理想のリーダー像とリーダーシップ・プロトタイプがある、ということである。部下は、これらに基づいて、職務遂行の様々な局面で、「リーダーなら当然こうするだろう」と部下なりに想定あるいは期待するのである。もちろん、現実は理想通りには行かないことも一定程度は想定してはいるのだが、たびたび想定や期待とは異なる判断や行動、態度を上司が示すと、部下は次第に違和感を強く感じるようになってしまう。もちろん、上司の側にも自分の目指すリーダー像があるので、部下の想定や期待に迎合してばかりもいられない。その結果、見解の相違や食い違いが目立ってくる、ということになる。

 社会的にあるいは組織的に高い地位に立つ人に対しては、高潔な態度をとるべきであると期待するノブレス・オブリュージュの考え方も、リーダーとして上司を評価するときのモノサシに加わることも多い。人間は、自分にとって重要な意味を持つ対象に対しては、自分なりのこだわりの評価基準を作り上げ、その妥当性を信じたがる。日々の生活の中で、この評価基準の正しさを繰り返し確認することで、自分はこう考えるという信念を構築するのである。そして、自分の信念とは異なる行為や現象に対しては批判し否定する反応を示す。

 今回のサッカーワールドカップでは、日本チームが決勝トーナメントへの進出のかかった試合において、最後の10分間はボール回しに終始し、攻撃する姿勢を示さなかった。このことに対しては、国内からも強い批判の声があがった。この批判は「サッカー(あるいはスポーツ)の試合とはいかにあるべきか」、という点について、最後まで潔く闘うべきであると言う信念に基づくものだったのだろうと思う。最終的に、現場で闘った選手と監督の意思を尊重して、あるいは、次の試合があることを考慮して、批判の矛先を収めた人たちも、その多くはもともとの信念が変わった訳ではなかっただろう。かなり強い批判があったにもかかわらず、次の段階へと視野を転換することができた理由を考えると、監督や選手からの率直でわかりやすいコメントと説明があったからだろうと考えられる。やはり丁寧な説明、理解できる論理的な説明こそが、すれ違いを超えて、上司も部下も皆で力を合わせていくための鍵を握っているといえるだろう。

 丁寧な説明、論理的説明がないままに事態が進み、組織やチームに満足のいく成果が見られないと、その責任はリーダーたる上司・管理職にあるとみなされることが多い。こうした現象はかなり頑健で、「リーダーシップの幻想」(原語ではleadership romance)と呼ばれている。満足いく成果があがらない理由は他にも多様にあるにもかかわらず、どうしても上司・管理職のリーダーシップ不足であるという理由づけが優先されやすいのである。個人の対人評価には、このような心理学的バイアスが存在するが、丁寧で論理的な説明によって、このバイアスは克服可能なものである。堅苦しくない説明の機会を作り、その説明を受け入れてもらう場作りの方法として、日々のダイアローグ(対話)は有効な取り組みになるだろう。

※先生のご所属は執筆当時のものです。

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