第147回 「日本的」な社会・集合現象について社会心理学的視点から考える(6) 〜ランキングに一喜一憂?〜

2023.3.3 山口 裕幸(九州大学 教授)

 日本人はランキングが好きだという意見をしばしば見聞するが、海外ではどうなのだろうか。もう20年くらい前の話になるが、短期の在外研究で南カリフォルニア大学を訪れたことがある。ある日、ファカルティ・クラブ(教員用の食堂・喫茶施設)で食事をしていたところ、その施設の一角で、たくさんの教員が集まり、拍手して乾杯をしている光景に出くわした。一緒に食事をしていた教授に「何を祝福しているの?」と尋ねたところ、「優れた教育を行っている大学ランキングで全米1位に選ばれたんだよ」とのことであった。

 そのときは、「入試の難易度ならいざ知らず、大学を教育内容でランキングするなんてアメリカ人は本当にランキング好きだなぁ」と思ったものだ。でも、今では、世界中の大学を複数の指標で評価したランキングは、おなじみの情報となっている。実のところ、世界中のどんな国や地域でも、ランキングは日常茶飯事といってよいほどごく普通に行われており、日本人が特別好んでいるわけではないといえるだろう。

 とはいえ、なぜランキングは多くの人の興味を引くのだろうか。その理由を社会心理学的な視点で考えてみると、人間は、比較することで対象の評価をできるだけ正しく認識しよう(したい)と思ってしまう傾向を強くもっていることに求めることができそうだ。この心理的傾向は、社会心理学者フェスティンガーによって「社会的比較理論」の枠組みで指摘されている。

 例えば、100点が満点の英語の期末試験で80点を取った人の気持ちを考えてみよう。その人の心理として、自分なりにまずまずの出来映えだという思い(=自己評価)はあっても、他方で、「はたして本当によくできたといえるのだろうか?他の人はどのくらいの点数を取っているのだろうか?」という興味・関心が次第に頭をもたげてくる。そこで、自分の得点は、クラスであるいは学校で何番くらいに位置するのかを知りたくなってしまう。

 人間は、社会や集団の中で、自分の立場・地位を正しく認識したいと感じてしまう動物なのである。我々の祖先は、過酷な自然環境の中で、自らと家族、子孫を守り生き抜くために、集団で生活することを選択した。集団生活では、自分の立場・地位を誤解した言動は、他のメンバーからの批判や攻撃を受ける契機となることがある。集団から排除されてしまえば、場合によっては死を覚悟しなければならないことさえあった。社会や集団における自分の立ち位置について、自己評価のみで安心せず、他者との比較を行って、正しく自分の立場・地位を見極めることは、生きていくうえで非常に重要な価値をもっており、進化の過程で人間が次第に身につけた習性といえるだろう。

 ただ、ランキングは比較するだけでなく、相対的な順位づけを伴う。そこには、優劣の評価が加わり、ときに苛烈な競争へと我々を導くこともある。ランキングの結果に一喜一憂することに精神的な疲れを覚える人も多いと思われる。ランキングがはびこる社会は決して心安らかに暮らせる社会だとはいえないだろう。

 ランキングを行う行為はどんな国、地域でも見られるものだとしても、その結果の受け止め方には様々なスタイルがあるだろう。日本の場合、ランキングの結果を気にしすぎる傾向がありそうだ。日本を含む東アジアの文化では、人々の間で共有されている自己観は、相互独立的であるよりも、相互協調的であることの方が優勢であると様々な研究で報告されている。このことは、自分の個性を大切にすること以上に、周囲の他者との関係が円満であることを大切にする傾向につながっている。すなわち、他者からの注目や評価がとても気になってしまうのである。例えば、自分の専門領域に関しては一家言ある学者、研究者が集まっている大学でも、毎年発表される大学ランキングを気にして、結果に一喜一憂し、影響されている様子を、筆者自身は目の当たりにしてきた。

 多くの大学人が気にしているこの大学ランキングは、はたしてどのくらい客観的信頼性があるものなのだろうか。Times Higher Educationという雑誌が毎年世界中の大学を対象に行っているランキングは、「教育力(30%)」、「研究力(30%)」、「論文の引用数(30%)」、「国際性(7.5%)」、「産業界からの収入(2.5%)」を評価して総合し、得点化した数値に基づくものとなっている。ただし、その評価には主観的な要素もかなり含まれている。

 筆者もTimes Higher Educationからの依頼を受けて、自分の専門領域で優れた成果をあげている大学を選出して回答したことがあるが、あくまでも「自分なりの評価」を回答するものとなっている。筆者の場合、本音をいえば、日本の大学、特に自分が所属する大学のことも高く評価したいなぁと思うが、「我田引水は控えなければ」と思いつつ、公平な評価を心がけている。しかし、世界中の研究者の中には、自分の独善的な評価や願望を反映した評価を行う人もいるだろう。己の良心に従って判断したとしても、結局のところ、主観に基づくバイアスのかかった(歪んだ)評価であって、それらを集計して出すランキングがどのくらいアテになるのかについては、慎重に考えてみる必要があるだろう。

 高度に客観的な評価を行うことは難しく、個人の主観に基づく評価を集めて、全体的な評価とせざるを得ないことは多い。世の中で関心を集めるランキングも多くはそうした世の人々の主観の集合だと思って見た方がよいのだろう。都道府県魅力度ランキングで下位に評価された自治体の首長が「不本意だ」と怒りの記者会見を行う気持ちはよくわかる。それぞれの都道府県に、そこにしかない魅力、価値が多種多様に見いだせるはずだ。

 ランキングの結果を絶対視して、意思決定や行動選択を行う際の物差しにすることには慎重でありたい。あくまでも参考情報に留め、個人も組織も、自らはどうあるべきか、その理念(=志)の実現に向けた取り組みこそが肝要であろう。

※先生のご所属は執筆当時のものです。

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