第119回 認知バイアスをうまく活用して人々を特定の行動に導く方法~「ナッジ」や「仕掛け学」を参考に~

2020.10.30 山口 裕幸 先生

 前回まで話題にしてきたCOCOA(新型コロナウイルス接触確認アプリ)の普及が進まない事例からもわかるように、世の中の多くの人々に特定の行動をとってもらいたい場合に、お願いしたり説得したりするだけではなかなかうまくいかない。世の中の多くの人々どころか、筆者の場合、妻や子どもたちさえうまく動かすことができず、自分の影響力のなさを嘆く日々である。この難しさの理由のひとつに、人間の認知過程において様々なバイアスが働いていることがあると説明してきた。

 認知バイアスは多くの場合、無自覚のうちに働いているので、これを制御することは外部からも自分自身でも非常に難しい。やはり根気強くお願いしたり説得したりするしか方法はないのではないかと、あきらめにも似た気持ちになりがちである。

 ところが、社会心理学や行動経済学の発展によって、認知バイアスの特徴が明らかになってくるにつれ、今度は、認知バイアスが無自覚のうちに働くことを逆手にとって、人々が知らず知らずのうちに自分で好んで特定の行動を選択するように誘導する技法の開発に注目が集まるようになっている。その代表格は、行動経済学者のセイラー(Richard Thaler)と法学者のサスティーン(Cass Sunstein)が2008年に共同して提唱した『ナッジ理論』である。また、同様の流れを汲む取り組みとして経済学者の松村真宏が推進する『仕掛け学』も関心を集め実績をあげている。

 ナッジ(nudge)とは、直訳すると「ひじで軽く突く」という意味である。人々が強制によってではなく自発的に望ましい行動を選択するよう促す仕掛けや手法を示す用語として使われるようになってきている。そもそもは、政府が起案する社会政策の多くが、法や権力によって人々の行動を一定の方向に強制的に導こうとするパターナリズムの思想に基づいているのに対して、法学者であるサスティーンは、個人の自由を最大限に尊重し、政府による個人への干渉は最小限にすべきであり、自主性に委ねようとするリバタリアニズムの思想に基づく政策の重要性を主張する研究者である。そこに個人が無自覚のうちにやってしまう心理的反応や行動について優れた研究知見を積み上げ、2017年にはノーベル経済学賞を授賞する行動経済学者のセイラーがタッグを組んで、リバタリアニズム的政策の実践可能性を論じたのである。

 

 ナッジ理論に基づく具体的な施策としては、1匹のハエがとまっている絵を小便器の中に描くことで、床を汚す人を激減させたアムステルダムのスキポール空港の事例が有名である。「人間は的があるとそこに狙いを定める(定めてしまう)」という行動分析の結果に目をつけて、よそ見をしないできれいに正確に小便器を利用させることに成功した事例である。スキポール空港では男子トイレの床の清掃費はなんと8割も削減できたそうである。

 日本でも、自転車の違法駐輪や放置自転車の問題解決にナッジ的な対策が効果を発揮した事例がある。自分のビルの敷地内に放置自転車が多いことに困り果てていたオーナーが、「ここは自転車捨て場です。ご自由にお持ちください。」という張り紙を自転車のサドルの高さに貼りだしたところ、放置自転車はどんどんなくなっていったそうである。それまで勝手に駐輪していた人たちは、思わず「自由に持って行かれてはかなわない!」と心配になったのであろう。

 さらに興味深いのが、環境問題に取り組むイギリスのNPO団体「Hubbub」が、タバコのポイ捨てが多くて困っていたロンドンで、「世界最高のサッカー選手は、C.ロナウドかL.メッシのどちらだと思うか?」という質問に対する自分の意見を、街のあちこちに設置したタバコの吸い殻入れを投票箱として投票するアンケートを実施した事例である。

 このアンケートが開始されると、人々は吸い殻をポイ捨てする替わりに、吸い殻入れに「投票」するようになり、街角からポイ捨てされたタバコの吸い殻を減らすことに見事に成功したのである。サッカー好きの人が多い街ならではの質問を準備したことがひとつのポイントだろう。多くの人が関心を持つ予測や予想を尋ねる質問を設定することで、遊び心をくすぐって、自発的に望ましい行動を引き出すところにナッジの特徴がある。

 仕掛け学の取り組みも、遊び心をくすぐるものが多い。筆者が感心したのは、2019年7月30日~8月5日の期間、大阪駅を舞台に、JR西日本と大阪大学「シカケラボ」が共同して行った「大阪環状線総選挙:アフター5に行くならどっち?あなたは福島派?それとも天満派?」という実験である(詳細は、https://www.westjr.co.jp/press/article/2019/07/page_14574.html を参照されたい)。これは、電車が到着したホームから改札まで移動する際、階段は幅広くスペースがあるにもかかわらず、それを利用する人は非常に少なく、エスカレータに乗るためのレーンに人々は集中して溢れ、通行の妨げになったり、危険を伴ったりすることさえある状況を改善しようとする取り組みである。

 「あなたはどっち?」という問いかけをする大きなパネルを対象エリアの壁や柱等に設置して、階段の左側半分を青く塗って「福島派」と大きく表示し、右半分を赤く塗って「天満派」と大きく表示した。ポイントは、それぞれの表示の部分を上った人をカウントして、集計人数を頭上の電光パネルに即座に表示したことである。自分の意見を反映させようと階段を上った人もいれば、集計人数を見て「少ない方をちょっと応援してやろうか」という判官贔屓の感情を刺激されて上った人もいることだろう。

 ナッジにしても仕掛けにしても、悪用される危険があることには注意が必要である。しかし、新型コロナウイルスの感染拡大防止を考えるとき、ついつい装着したくなるマスクとか、思わず小声で会話したくなる仕掛け等、遊び心を持って考案する取り組みにも挑戦することは意味のあることだろう。ルールを声高に叫んだり、罰則を設けたりしても、なかなか支持されず普及しない施策の改善を考えるとき、ナッジや仕掛け学の視点は有効な道筋を照射するものとして注目したい。

※先生のご所属は執筆当時のものです。

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