第44回 専門家の直感は信用できるか

2014.03.11 山口 裕幸 先生

 随分前になるが、私が、看護学生の教育プログラムを打ち合わせるために訪れた病院の食堂で、ベテラン看護師さんと昼食をとりながら、一緒にテレビを眺めていたときのことである。ニュースの中で著名な政治家が入院して散歩をしている様子が映った。テレビに映った政治家の様子を一目見て、そのベテラン看護師さんが即座に「ああ、かわいそうに」とぽつりと声を漏らした。私は、「さすがに看護師さんは優しいですね。確かに病気で少しやつれてはいますが、すぐに元気になりそうじゃないですか。」と言ったところ、「優しいというわけではなくて、かなり病状が深刻に見受けられたので、つい言ってしまいました。あの方はそんなに長くはないかもしれませんね」とそのベテラン看護師は話した。私は「わかるものですか。さすがだなぁ」と感想を漏らすと、「長年やってくると、なんとなく直感的にわかってくるようになるものですよ。なぜそんな感じがするのかまではわからないけど」とおっしゃった。入院する前はエネルギッシュな印象を与えていた政治家が、数ヶ月後に死亡したという報道を目にしたとき、あのベテラン看護師の直感の鋭さを改めて思い出すことになった。

 我々の直感的な判断には、知らず知らずのうちに多様な歪み(バイアス)が発生してしまうものである。喜怒哀楽の感情はバイアスの源泉の代表選手であるが、自分が見たものが存在する全てであると思い込んでしまうバイアスや、いかにもありそうなもっともらしいストーリーの展開にあわせて判断してしまうバイアスなど、紹介し始めたらきりがないほどである。これについては回を改めて紹介することにして、今回話題にしたいのは、「そうはいっても、医師や看護師、警察官や消防士、あるいは骨董や美術品の鑑定士など、その道の専門家の直感は信用できるような気がする」という問題である。果たして専門家は、様々なバイアスをどのように克服しているのであろうか。それとも、専門家といえども、その直感は信用できるほどのものではないのだろうか。

 人間の直感的な判断過程に様々なバイアスが働いていることを、多様に実験を行って明らかにしてきたカーネマンは、専門家の直感が信用に足るものなのかについて、興味深い論述を行っている(Kahneman, 2011)。彼は、科学的な実験結果に基づいて、基本的には、直感に頼るよりも、チェックリストをあらかじめ作っておいて順序よく判断を行う(=アルゴリズムに基づく)方が、より的確な判断ができると主張してきた。しかし、これに異を唱える研究者もいる。「人間が実際の状況(=緊急事態など)でどのようにものごとにうまく対処しているかが大事なのに、人工的な状況(=実験室実験)のもとで発生した失敗ばかりを取り上げている」というのである。カーネマンとて、専門家の直感が全て外れると考えているわけでなかった。そこで、「経験豊富な専門家が主張する直感は、どんなときなら信じても良いか」というリサーチ・クエスチョンを設定して、カーネマンの見解に懐疑的な研究者のクラインも巻き込んで一緒に研究を行うことにしたのである。

 研究内容についてはここでは詳細に触れないが、カーネマンの著書の邦訳『ファスト&スロー』が刊行されているので、興味のある方はぜひ一度読んでみていただきたい。焦点となった専門家の直感を信じても良いときの条件は次の2つであると結論づけられている。ひとつは、(専門家が働く現場が)十分に予見可能な規則性を備えた環境であること。もうひとつは、長期にわたる訓練を通じてそうした規則性を学ぶ機会があること、である。つまり、直感は豊かな実体験を通して学習できるものではあるが、それが的確なものとして通用するのは、事態がある程度の規則性をもって変化する環境に限られるというわけである。

 複雑とはいえ規則性のある環境を相手にする医師や看護師、消防士や運動選手、チェスや将棋、囲碁のエキスパートなどは、その直感はある程度信用するに足るというわけである。ただし、ほとんど予測不能なほどに変動性の高い環境を相手にする専門家、例えばファンドマネージャーや政治評論家の場合には、その直感は残念ながら当てにならないとカーネマンは結論づけている。どれほど経験を積んだ専門家だとはいえ、変化が多く予測不能な環境を相手にするときは、その直感は多様なバイアスに歪められて、的確さを欠くようになってしまう。

 ここで十分に気をつけておかねばならないことがある。相手にしている環境が、複雑で変動性に富むため予見可能なほどの規則性を持っていない環境を相手にしている専門家は、自分の直感に頼らず、チェックリストを活用する等、判断がバイアスに左右されないように留意する必要があることである。規則性がほとんど見いだせない変動性の高い状況であっても、我々は容易に直感で判断できる能力を持っている。その直感は信用できないことがほとんどなのに、専門家は自分の直感に基づいてついつい自信たっぷりに予測をしてしまうし、また聞く側も安易にそれを信じてしまう。悪意はなく知らず知らずのうちに行っていることとはいえ、こうした行為は不幸な事態につながりかねないリスクを秘めている。時間がなくとっさの判断を求められるときは仕方がないが、時間的に十分な余裕があるときは、やはりアルゴリズムに基づいた判断を心がける方が的確な判断につながりやすいことを肝に銘じておきたいものである。

※先生のご所属は執筆当時のものです。

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