第19回 人間を把握する(1)

2017.12.19 山岡 俊樹 先生

 前回 まではモノやシステムについて、考えてきたが、今回は人間について考えてみたい。著者の研究室は5階であるが、エントランスが2階にあるため、実質、4階に相当する。2階にあるエレベータを見ているとエレベータ待ちの学生が多くいる。健康のために歩いたほうが良いのだと思うのだが、どうなのだろうか。また、満員の京都市バスで、運転手がもう少し詰めて乗客を乗せてくださいとアナウンスをしているにも関わらず、ほとんどの乗客が動こうとしないのはなぜだろうか?また、満員の車内で、なぜ声をかけて移動しないのか?無言で体を押してくるのである。阿吽の呼吸なのかもしれないが、日本人にその傾向が強い。京都市内の主だった道路の歩道には自転車道が設置されている。自転車道に関する情報は、路面の色彩・イラストや素材、歩道との境界にある柵などの情報により、歩行者は分かるはずであるが、自転車道を歩いている歩行者を多く見かける。以前、TV中継で、職安で順番を待つ年配の男性がTV局のスタッフから質問を受けていた。退職後、自分の貯金がどの程度あるのか調べたら少なかったので、そのため職安に来ていたという話であった。

 以上の例に関し、機械やシステムに対して、無批判に受け入れたりするのは良いのだろうか?一度、主体である人間の存在から機械、システムとの関係を考える必要がある。「エレベータ、エスカレータ=便利、楽」という視点だけで判断して良いのだろうか?混んでいるバス車内で、乗車希望者のために配慮したり、満員の車内で移動する際、声をかけるという思考が起きないのはなぜであろうか? また、近い将来、退職するのが分かっているのに、なぜ考えようとしないのか?このような例は特別ではなく、日常生活に慣れてしまい、我々はこのような思考停止状態に陥ってしまうのが常である。21世紀に入り社会のスピードが格段に速くなり、ついてゆくのが大変である。どうしたらいいのだろうか?

 前述した話の共通点は、狭い意味での自分中心であり、自分とのかかわりの世界とのつながりをあまり深く考えていないようである。人間は意外と考えているようで考えていないということが分かる。この件に関連した面白い実験がある。公園のような場所でインタビューしている人と答えている人の間に、2名で運んでいる大きな看板が割って入って通過する際、インタビュー者が入れ替わっても、答えている人は気が付かないという実験である。今まで喋っていた相手が変わっても、気が付かないという現象である。

 どうも人間は思考する負担を軽減するため、自動化しているようである。この自動化には身体に関して、反射弓という現象がある。これは外部からの刺激を感覚器から大脳を介さず、感覚神経を経て効果器へと結ぶ信号伝達経路である。いちいち大脳を介して、判断していたら時間がかかってしまうので、一種のショートカット回路になっているのである。熱いものに触ったとき、いちいち判断していたら、火傷を負ってしまう。反射弓の場合、身体を守るという効率性の問題であるが、思考の場合に効率性を取り込むといろいろ問題点がある。思考する際、外部刺激に馴染んでしまうと新しい発想ができなくなってしまうという問題点がある。料理を作る際、常に工夫を心がけると段々、料理の質が向上するだろう。大学の人間工学の授業で、私が提唱しているHMI(Human Machine Interface)の5側面(身体的、頭脳的、時間的、環境的、運用的の5側面)を学生に教えているが、学生から今まで見えなかった世界が見えるようになったとよくコメントをもらっている。思考は積極的に行って、鍛えていった方が良いように思う。そうするとその負担感が軽減されてゆく。

 新製品や新システムの開発には、観察による様々な事象の発見や発見事象の構造的解釈の思考による発想が基本となる。そのためには幅広い知識(例えば、著者が提唱している70デザイン項目他)が必要で、これに基づく発想ができるように思考力を強化するのが良いだろう。

※先生のご所属は執筆当時のものです。

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