第90回 思考の硬直・停止(その11)思い込み(固定概念)

2024.3.29 山岡 俊樹 先生

 我々は体験(経験)と知識を活用して思考するとよく言われている。問題解決や発想を行うにも、体験と知識が必要である。体験は長期記憶のエピソード記憶として頭の中に残るが、想起を繰り返すことによりその文脈が無くなり、体験の意味記憶として定着する(高橋雅延, 認知と感情の心理学, p.101, 岩波書店, 2008)。そして、この長期記憶(意味記憶)は知識となる。
 一方、知識には、宣言的知識と手続き的知識がある。前者は事物や事象の属性に関する知識で、事実や概念(スキーマやメンタルモデルなど)などを示し、後者はいかに目標を達成させるかに関する知識(例えば、自転車の乗り方やネクタイの結び方)である(認知科学辞典, p.545, 共立出版, 2003)。
 以上から、体験に関する知識は、宣言的知識と手続き的知識にあることがわかる。

 そのように考えると体験は知識の範疇に包含されるが、ここでは、体験は道具や製品を使うなどの身体にかかわることを知りえたこと、知識はモノ・コトに関して知りえたことと定義する。この両者を結び付けているのが触媒思考という考え方もある(外山滋比古, 考えるとはどういうことか, p.51, 集英社インターナショナル, 2012)。この結び付けているというのは当然として、筆者は思考には両領域での接点を見出し、目的を明確にする機能があると考えている。あるいは目的から両者を結び付けることもあろう。これらのことから、目的-体験-知識を結び付ける絞り込み思考と提唱したい。

 体験が思考や発想に重要な役割を果たすのは、具体的な時空間でのイメージや行動を想起させるためであろう。一方の意味記憶としての知識とこの体験の結び付きにより、新しい概念やイメージが形成される。例えば、コーヒーカップの場合、コーヒーを飲むためのコップという概念なので具体的なイメージがわかない。それに自動車内で飲む、森林内の丸太小屋で飲むなどの時空間のイメージを加えるとさまざまな思考や発想が生まれる。しかし、体験と知識を組まなくとも、体験だけ、知識だけでも思考・発想は可能である。

 体験と知識を活用して思考する際、目的がないと思考できない。無目的で赴くまま経験と知識を結び付けても全く意味がないだろう。目的があるからこそ、それに対応した体験と知識が結び付けられ、良いアイディアやソリューションを発想することができる。逆に目的の概念は曖昧でも、体験と知識により限定され、明確になっていくこともある。あるいは、曖昧な目的が体験と知識により、別な目的に変わっていく場合も可能だ。

 体験と知識を結び付けるとき、常識という思い込みが発想の障がいとなることがある。常識はその時代の人々の意見の集大成でもあるので、斬新な発想の障がいとなる。言葉も同様だ。
 先日、自宅近くの人通りの多い道路を歩いていたら、中年の女性が菓子パンを食べながら歩いていた。以前は、常識としてはしたない行為と思われていたが、現在はあまり違和感のない行為のようだ。そう考えると、はしたないという常識を壊して、歩きながら食べる食品というのも可能かもしれない。現にアイスクリームがそのような状態だ。
 言葉も同様で、例えば「全然」という言葉は本来「全然--でない」という否定的使い方であるが、現在は肯定的に使っている場合もある。言葉は恣意的な側面があり、皆さんが、「全然--である」と使いだしたらこれが主流となる。これらの事象がアイディアやソリューションに影響を与えるとは思えないが、注意したほうが良いだろう。

 学校教育では、従来の知識一辺倒から、体験を重視した教育に変わってきている。以前のモノづくりで重要なのは知識であったためである。しかし、21世紀に入り、お手本のないモノ・コトづくりには、従来にない発想が必要で、そのためには知識だけではなく体験も重要になる。そうすると、以前のようなやるべきことが明確であった時代と違って、先が見えない時代では体験に基づいた発想力のある人材が必要とされている。

 モノ・コト・システムは時空間に存在し、我々の頭にあるのはそのイメージである。そのイメージを多くため込んでもその実体はわからない。我々の五感を通して、それらを体験することにより、その実体を理解することができる。

 このような状況に対して、我々はどのように自分の専門を位置付けていったら良いのだろうか?あるいは、モノ・コト・システムの開発をどのように考えたら良いのだろうか?
 それには以下の2通りが考えられる。
① 自分の専門領域を広げ、頑強なものにする(図1)
② 一般教養を中核に位置付け、その周囲に多様な専門を位置付ける(図2)

 図1のスタイルは、モノづくりだけのような単純な場合に役立つ専門家の位置付けであり、開発方法である。作るものが決まっていたので、ある限られた領域の専門知識さえあれば良かった。しかし、このスタイルがダメになったというわけではなく、ニーズはかなりある。
 ところが、21世紀のモノ・コト・システム作りにはホリステック(holistic、全体論的な)なマクロとミクロの視点が重要で、図2に示す通りである。中心に位置付けられる「教養」がマクロの視点で、周囲に位置付けられるのがミクロの「専門」である。それらの領域は柔軟で曖昧で、専門同士が融合する場合もある。例えば、筆者が提唱しているデザイン人間工学は、デザインと人間工学が融合した学問領域である。教養はその人の歴史感や哲学に基づく価値観である。この教養により、何を作るかのモノ・コト・システム作りのベクトルが定まり、それに従って専門が対応するという構図である。20世紀型ではマクロの視点が弱く、主にミクロの専門家が分担していたが、21世紀型ではマクロとミクロを1人で行われなければならない。豊かな発想はマクロとミクロの有機的なつながり・視点が大事で、T型、Π(パイ)型の専門家が必要である。TとΠの横棒がマクロ、縦棒がミクロとなる。2027年秋に東大が開設を予定しているcollege of designはこのような構想ではないかと考えている。

※先生のご所属は執筆当時のものです。

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