第84回 思考の硬直・停止(その5)

2023.10.3 山岡 俊樹 先生

 江戸時代は暗黒の時代だという通説があり、思い込みとなっていた。確かに、さまざまな本を読んでも、江戸時代はそのような背景の下に書かれていた。
 しかし、
① 田中圭一, 百姓の江戸時代, ちくま学芸文庫, 2022
② 原田伊織, 日本人が知らされてこなかった「江戸」, SB新書, 2018
③ 原田伊織, 三流の維新 一流の江戸, ダイヤモンド社, 2016
④ 渡辺京二, 無名の人生, 文芸春秋, 2023
を読むとそうでなかったことが分かる。

 歴史学者の田中圭一によると、既存の江戸時代を書いた本は、支配者史観だという。つまり、軸足を中心の支配側に置き、周縁を見渡す伝統的方法であったという。田中は、逆に人々の周縁に軸足を置き、中心を見渡す方法をとって、当時の農民の生活を生き生きと描き出している。渡辺京二は「無名の人生」の4章にて、「幸せであった江戸の人々」のことを指摘している。その中で、大森貝塚を発掘したエドワード・モースは次のように紹介している。日本には母国アメリカに見られる貧民窟がなく、もちろん貧しい人はいるが、彼らの暮らしは決して悲惨ではない。

 このような江戸時代は暗黒だったという思い込みは、明治政府がその存在を強調するため、アンシャン・レジーム(旧体制、江戸時代)を否定したことによる。この構造を読み解くことにより、モノ・コトの本質を把握することができる。

 明治時代の人々の思い込みの例では、日露戦争の講和条約の例がある。日本国民は、その時の日本の状況を知らされておらず、戦争に勝ったのだから、それなりの報酬を獲得するものだと思い込みをしていた。しかし、実態は薄氷を踏む勝利だったので、会議は難航し日本側の首席全権大使である小村寿太郎(外相)が何とかまとめて帰国するも、国民は激怒し日比谷焼討事件を起こした。時の政府は交渉をスムーズに進めるため、国民に正確な情報を示すことができなかったのである。

 以上述べた思い込みの例は、大衆レベルだけでなく、個人でも数多くある。特に、外部の情報量が少ない場合や本人の体験・知識量が少ないと適切な判断を下すのは難しくなる。その外部の情報の真偽を見極める力も必要であろう。特に、マスコミによりミスリードされる可能性も高い。

 プラトンの洞窟の比喩という話がある。簡単にいうと洞窟の中で縛られ、洞窟の奥の壁のみを見つめて生きている囚人がいる。彼らの背後に火が置かれ人々がいて、火がその人々を照らし、その影が囚人の見ている奥の壁に映し出されている。囚人はこの影を実体と思い込んでしまうという話である。昔、この話を読んだ時、感じたのはマスコミの提供する情報は、一種の洞窟の影ではないかと思った。それらの情報は一方的で、我々はその妥当性を判断することは難しいためだ。紹介される政治、経済から健康のための薬などの情報は確かめようがない。すべて、自分でそれらの情報を的確に判断できる知識と体験が必要である。

 理系の世界でも主観データは客観データよりも劣るという考え方(思い込み)がある。デカルトの要素還元主義の影響のためだ。学生からよく聞かれたが、このデータは主観なので問題ないのかと。企業にいた時、工場で使うインデント製品の色の妥当性について、顧客にアンケートデータを示したところ、主観データだからダメといわれた。そこで、そのデータを因子分析にかけて、論理的に説明したところ、科学的だといわれOKをもらった。元の主観データは変わらず、多変量解析(因子分析)を行って、別の見方にしただけであった。

 よく自分の思考はオリジナリティがあるなどと思っている人がいるようだが、実際そうだろうか?思考は知識と体験から成り立っていると考えるならば、既存の知識と当たり前の体験から、新しい思考は生まれないだろう。ただ自分が思い込みで新しい思考と思っているのかもしれない。

 高齢化社会になり、昔の高齢者と違い退職後の老後時間が多くなり、高齢者はどう暮らしていくべきなのか方向性が見えず、高齢者の生き方を紹介した多くの本はベストセラーになっている。つまり、老後時間に関する知識がなく、体験も当然ないので不安の裏返しが、その種の本のベストセラー化となっているのだ。若者の将来の不安というのも、知識も体験もないので、高齢者の場合と同様なのであろう。

 思い込みをするより本質を知った方が良いが、人に迷惑をかけず思い込みで幸せな気分を持てるならば、それで良いのかもしれない。我々は知らない間にさまざまな思い込み(例:--すべきだ)をしている。その思い込みが人に迷惑をかけると判断したならば、世の中で許容されている基本の価値観から、その思い込みに代わる考えを抽出し、活用するのが合理的な対応である。しかし、時がたつと新価値観は旧価値観となり、新価値観が出現し価値観の循環は始まる(図1)。これらの価値観の基礎にあるのが東洋学の泰斗、安岡正篤のいう徳性、道徳性であろう。こういう判断ができる人が、人格者だと思う。

※先生のご所属は執筆当時のものです。

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