第87回 思考の硬直・停止(その8)思い込み(固定概念)
2023.12.27 山岡 俊樹 先生
皆さんはコーヒーを飲む際、どのような容器を使っているのだろうか?図1に示すコーヒーカップに決まっているではないかと言われるかもしれない。コーヒーを飲むのだからコーヒーカップだというのは正しいが、ある意味では思い込みでもある。
通常、コーヒーを飲むとき、愛用、慣用のコップが頭の中にあり、どのコップで飲もうかなどと考えないだろう。いちいちこのようなことを考えずに済むように頭の中で自動化し、無意識化している。しかし、「それは何もしなかったことで、死んでしまっていることと同じだ」とトルストイは日記に書いている(蓼沼正美, 超入門!現代文学理論講座, pp.42-44, ちくまプリマ―新書, 2015)。
この死んでいるというのはともかく、我々は情報処理の自動化を行って脳への負担を減らしている。触覚を通して得た情報を身体化するプロセスを省略し、視覚処理に依存させている例は多い。通常のコーヒーカップだと、取っ手があるので、カップの持つ熱量を手に伝えることはない。そうするとコーヒーカップと人間との間のインターアクション(やり取り)が希薄になり、飲むことも無意識に近い行為となり、飲んだという実感が薄くなる。例えば、ゲームに夢中になったり、面白いTV番組にくぎ付けになったりすると、飲んだという実感が無くなるだろう。
しかし、図2のようなフリーカップはどうだろうか?取っ手がないので熱いコーヒーによる本体の熱量が手に伝わり、飲む実感が生じる。そのため、熱いコーヒーを飲むという実感を手の触覚を通じて事前に得ているので、取っ手付きのコーヒーカップと違い注意するためスムーズに飲める。
また、取っ手がないというのはどこを持っても良いので制約がなく、気楽にアクセスできる。
秋岡芳夫(1920-1997)は「ぼくらの手には味覚があって、器のぬくもりで器の中身の味を味わうことができる。日本特有の食の伝統、手で器を持って食事をし、飲み物を楽しんできたその長い歴史が、ぼくらの掌(てのひら)に、知らず知らずの間に「手の味覚」を育てている。」(秋岡芳夫, 暮らしのためのデザイン, pp.74-75, 新潮社, 1979)と述べている。まさしくその通りだ。そこで、彼はコーヒーを湯呑で飲み、ソーサーの代わりに長手盆を流用し湯呑の横にお菓子を置くと、日本人の飲み物らしくなるとも言っている。
図2のフリーカップは京都市内で開催されていた陶器市で購入したものである。とくに使う目的もなく、何となく面白そうだと感じて購入した。(a)は部分的に釉がかかり、(b)は素焼きである。両カップとも素焼きの部分が手に刺激を与え、ゆるんだ触覚を覚醒させる。
あるとき、これらの容器でコーヒーを飲んでみたところ、従来と違う感覚を得た。それ以来、愛用しているが、触覚が"ゆったり"とした感覚を身体に与えている。この触覚が何ともよく前述した秋岡芳夫の手の味覚かもしれない。この触覚の重要性を述べているのがアーチストで戦前ドイツのバウハウスの教官であったモホリ・ナギ(1895-1946)である(L.モホリ=ナギ, ザ ニュー ヴィジョン, ダヴィッド社, 1967)。モホリ・ナギが活躍したのは今から100年前であるが、その当時でも視覚が優位にあったのであろう。
街中にある大きな広告塔などの表示は、そこまでの距離が遠いため視覚のみが関与するが、生活を豊かにする容器や家具は、使用者との距離が短く、五感がすべてに関係している。もっと五感を活用したデザインにすべきだろう。 我々の日常生活では視覚にウエイトが置かれている場合が多いが、隠れた脇役でもある触覚の再認識が必要であろう。
※先生のご所属は執筆当時のものです。
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