第103回 ホリステックな考え方(13) 全体と部分の関係

2025.5.16 山岡 俊樹 先生

 前回は主に全体から部分を見る観点を述べたが、今回は逆の部分から全体を考察したい。

京都以内の街を歩いた
 京都市内の街を歩くとお地蔵様の祠(ほこら)をいたるところで見かける。住宅は町家づくりが多く、他の都市とは雰囲気がまるで異なる。このように日常生活をするうえで目にする世界がミクロ、部分の世界である。我々は日常、このような制約条件下でものを見、判断している。こういう世界で人々の考え方や社会の動向を把握するのは非常に難しい。しかし、ミクロの世界から構造的に考察するとマクロの世界を把握することができる。
 一方、京都の将軍塚から京都市内を眺めた。将軍塚は華頂山の山頂にあるので京都市内を一望できる。すると、京都の碁盤目の街並みなどがすぐ理解できるが、詳細は分からない。

 地球全体から、日本全体から、東京全体から、などの思考する範囲が非常に広い場合は、ミクロから考える他はない。しかし、そこまでいかなくとも、ある限定された範囲でのシステムを思考、デザインする場合は、前回紹介した通り全体から考えていくのが自然である。

音楽を聴く
 クラシック音楽、歌謡曲や民謡などに限らず、音楽は時間の流れを構造化し、全体のイメージを人々に伝えている。クラシック音楽の場合、内容が抽象的なので1回聴いただけでは全体像をつかめない。最初は好きになったフレーズが記憶され、更に聴き込んでいくと段々他のフレーズも理解され、全体としての曲の評価が可能となる。中学生時代、指揮者は誰でも同じだと思っていたが、いろいろ聴き慣れてくると優秀な指揮者とそうでない指揮者の差は一目瞭然である。
 凡庸な指揮者、凡庸な画家、凡庸なデザイナー・建築家などは、その解釈に鋭さがないので、感動を呼ばない。つまり、当たり前の解釈しかできないので、面白くないのだ。当たり前の解釈をするというのは、熟考していないことの証左でもある。

  今年、4月に台湾の大学でコンファレンスがあり、キーノートスピーチを頼まれ台湾に久しぶりに訪問した。折角なので終了後、台中に出向き伊東豊雄デザインの台中国家歌劇院へ出かけた。有機的で温かいデザインであり、モダニズムを超越した素晴らしいデザインであった。約10年前、スペイン・バルセロナのガウディ・デザインのカサミラを見学したとき、その屋上から見ると周囲の建物でなかなか良いデザインがあると気が付いた。後で調べてみると伊東豊雄のデザインであった。

  歴史上、名を遺した偉大な音楽家は全体を考え、それから部分を考えて創作活動をしたのであろう。全体の構想を考えてから、あるいは同時に部分を検討していると考えられる。しかし、聴講者の場合は、逆に部分の集積とその構造から全体を理解していく。

絵画を鑑賞する
 絵画の場合はどうだろうか?通常、美術館では絵画に対して、全体を見てから部分を見るのではないだろうか。勿論、部分から全体を見る場合もあるだろうが、主に全体から見ている場合が多いだろう。音楽が時間軸で聴く機能に対して、絵画は空間で見る機能があるからだ。我々は時空間の中で生きているので、その両者しか選べない。しかし、視覚、聴覚に障害がある人は、他の感覚で足りない情報を補っている。美術館での鑑賞は、ある画家の作品を過去からの時間軸上で一つ一つ見て、それらの全体としてその画家の姿勢やそれらの作品の全体像を把握している。あるいは美術館でなくとも、日常生活の時間軸上でランダムにある画家の作品を見ていくことも美術館で見ることと同じである。

人間を観察する
 ある人間を知るとことは、非常に難しい。当の本人も自分の性格を厳密に知っているわけではなく、ましてや第三者が理解するというのは至難の業である。通常、相手の行動や発言を手掛かりに推定していく他ない。つまり部分から全体を推定することとなる。その人の性格や思考は、両親、学校教育や社会からの影響が強く影響を受けているだろう。しかし、大人になるにつけ、それらの影響を脱皮して新たな自分を作っていく人もいるだろうし、脱皮せずにそのまま年をとる人もいるだろう。どちらが良い、悪いの問題ではなく、それはその人の人生観によるベクトルの結果に過ぎない。
 知識、体験が少ないと、自分の判断基準が偏る可能性が高く、頑固などといわれる。多ければ良いというわけではないが、多くの情報から判断することができるので、その時代の価値観にあった思考、行動をとることができる。知識、体験が少ないとダメというわけではなく、その範囲内で社会基準や習慣に合った生活をすればいい。我々の行動で正しいというのは、その時代の価値観を反映したものと考えられる。後50年もすれば価値観は変わり、人々の行動も変わるだろう。

 今まで人について述べてきたが、会社や社会というシステムも同様である。会社や社会の検討や評価をする際、我々は有効な情報がないので、マスコミや書籍などの情報を得て判断している。これらの情報は、バイアスがゼロではないので注意を要する。プラトンのいう洞窟の比喩に当てはまるのではないだろうか?洞窟の壁に向かって縛られている囚人は、後部から太陽光に映し出された影絵を見ているというたとえである。囚人を我々とすれば、我々は影絵を見ているに過ぎないともいえる。それでは本質を捉えるには、どうしたらいいのだろうか?影絵である部分を多く集めて全体を捉えることしかない。

部分を集めて全体を捉える
 冷戦時代、極秘であったソ連の潜水艦の全体を把握した西側のジャーナリストがいた。この人は新聞、雑誌などに出ていた潜水艦の部分情報をコツコツと収集して全体を把握したのである。部分の情報は制約でもあるので、多くの制約を集めていくと全体像が段々と絞り込まれる(図1)。この制約を使ってソリューションを絞り込むことができるとまとめたのが、拙著「絞り込み思考」である。この思考は無限大の情報から制約(目的、コンセプト、可視化、評価)を使って絞り込んでいく方法である。基本はマクロ情報からミクロ情報への絞り込みであるが、絞り込んだ情報を多く集めると本質(全体)が分かるので、ミクロからマクロへの絞り込みともいえる。多く集めると本質(全体)が分かるというのは、帰納法なので次節にて説明する。

図1 部分の集合で全体を見る

多くの情報を集めて共通項目を抽出する帰納法(induction)
 多くの白鳥を集めるとその共通項目の1つとして白い鳥ということになる。しかし、帰納法により得たのは、その集団内で有効な仮のデータなので、より多くのデータを採取すると当初の仮のデータは間違いとなり別のデータが当面の真実となる場合がある。現に17世紀にオーストラリアで黒い白鳥を見つけたので、白い鳥というデータは間違いとなった。収集するデータの数を多くするとその共通項目は段々と抽象的になる。これは当然で多くのデータの共通部分を捉えるには、多くの範囲をカバーする抽象的概念にならざるを得ない。つまり、部分を多く集めていくと抽象的になる(図2)。

図2 帰納法

※先生のご所属は執筆当時のものです。

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