第45回 温かいデザイン(21)

2020.06.30 山岡 俊樹 先生

 モノゴト(物事)やシステムを構造的に把握するには、デノテーション(外延、denotation)とコノテーション(内包:connotation)の両面から検討すると有効である。本論では記号論の観点から前者を直接的意味、後者をこの直接的意味から付随的に生まれる潜在的意味とする。この2つの視点を通して、モノゴトやシステムを考察すると様々な視点での分析が可能となる。ポルシェはドイツ製の高級スポーツカーであるが、その所有による羨望や金持ちであるということがそのコノテーションとなる。広告などではこれらの側面を利用し、深みのある提案がなされている。

 昭和34年頃、我が家で白黒のTVを購入した。当時、物珍しいことも手伝って、自宅に大勢の子供たちがTVを見に来ていた。当時のTVは画面に役者が映っているだけで貴重な存在であった。その当時のTVのデノテーションは画像を表示する最新のハードであり、コノテーションは貴重な存在である。TVはモノであり、番組などの画像はコトである。その後、TVはカラーTVから液晶TV、大型TVとその変遷をしてゆくが、その本質はTV本体ではなく、コトの表示する情報である。TVは言ってみれば演劇や映画館の舞台装置に過ぎない。いくら高精細画面の開発に資本投入しても、ある閾値以上の画面精度になると人間はその良さを分かるだけの分解能を持っていないので、その効用は余りないだろう。こういう技術に依存した商品は、コモディティ化してゆく宿命を持っている。しかし、コノテーションがあると文化的側面が出てくるので、コモディティ化を回避できるだろう。TVの場合、部屋との調和とか、心に響く音などのコノテーションを試みたが、強いコノテーションを生むことができなかった。音楽の場合はどうだろうか?デノテーションが音であり、コノテーションはその音楽が訴える意味である。個別性のある意味はコモディティ化しない。ウオークマンの場合、「録音できない従来に無い小型のテープレコーダー」などとデノテーションを強調した広告ならば、大ヒットにつながらなかっただろう。「屋外で歩き(walk)ながら音楽が聴ける」という使い方がイメージできるコノテーション(だからwalk man)を強調したから良かったのではないだろうか。

 こう考えると戦後開発された製品やシステムは、マズローの要求五段階説の上位(あるいは最上位)の段階に対する憧れがコノテーションに付随していたのかもしれない。家電製品、車、住宅、デパート、レストランなどはどうであろうか?家電製品の場合、その普及率が90%以上になった製品は誰でも所有しているので、それを持つのが憧れでなくなり、その為コノテーションが無くなり、コモディティ化した状況となっている。これを回避するためインターナショナルスタイルから日本調のデザインにするなどのアイディアが生まれるが、安直すぎて賛成できない。そうではなくて、心に響く、ある懐かしさのような感情を生成させるコノテーションが必要であろう。現在では、モダニズム(近代主義)を超えた本当の意味でのコノテーション価値の提供が必要である。自動車も同様で、鉄板の性能向上とプレス技術が発達し、以前よりも自在な形状のデザインは可能となったが、一部の車を除いて、コノテーションが無いか、あっても弱いためか伝わってこない。つまり存在感がすっかり弱まってしまった。このコノテーションを新たに生み出すのがデザイナーの重要な価値と考えているが、デノテーションの造形レベルで留まっている。

 我々の身の回りの製品やシステムが普及し、コノテーションの憧れが衰退し、その代わりに注目されたのが体験(user experience)である。ユーザが持つ共通の色褪せた憧れから、到達したマズローの自己実現段階での個人レベルの価値が必要になり、体験がクローズアップされたのであろう。ユーザの価値がある程度達成された憧れの世界から、個人に視点がシフトし、体験にそのウエイトが変わりつつあると理解できる。勿論、体験でなくとも、個人に絡む何らかの価値でも良い。例えば、体験と関係するが、共感などが考えられる。ブランド化された化粧品やファッションは、人々の共通の単なる憧れではなく、個人に焦点を当てた憧れや共感に変わってゆくかもしれない。


図1. マックの表示がMのみ

Mという表示(デノテーション)であるが、その書体と色の独自性から、
コノテーションとしてマクドナルドのハンバーグ店と認識できる。

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